食料や日用品のような、一種の消耗品として、暇に対する情報というものがあります。特に話題探しのようなことをしている人にとって、到達が容易で軽々しい情報が日々の消耗品として必要なのでしょう。
知っても仕方がないような情報にも消費を刺激する要素が含まれていたり、はたまた何かの注意をそらすために無駄に騒ぎ立てられていたりと、そうした消耗品的な情報にはあまり良い要素はありません(「話題」は暇な人の消費対象)。
消耗品的に消費されていく情報の中にも、概念や観念を形成していく要素がもちろん含まれています。しかしながら情報の質が低く、その後に何かしらの知識につながるということもそうそうありません。
暇への対処のためにと情報を求める背景
おそらく暇に対処するための情報を集めてしまう、―情報を求めてしまう背景には、「特に夢中になることがない」という状態があるのでしょう。
何も夢中になることがなく、常に暇だからこそ消耗品的なストレスのかからない情報で当座の暇を何とかしようという感じになっています。
それは感受性としての性質が影響しているのかもしれません。
何かに感染し、何かしらの強烈な動機が生まれた場合は、暇をつぶそうというようなことが無くなるからです。
僕の場合は幸か不幸か、強烈なインパクトを得て何かに突進してしまう性質を持っていて、十代中盤ならば楽器、十代後半からは「様々なショックへの納得」というものが先にあり、その強力なエネルギーのもと突き進んでしまうという感じで過ごしてきました。
なので、食料や日用品のような、一種の消耗品としての情報への渇望感というものは特になく、あくまで強烈な一撃をくらった後にそれに関連した情報を「集めざるを得ない」という感じで過ごしてきているので、それに少しも関連しないような情報を切り捨てるという癖がついています。
その結果として自宅にはテレビもなく、他人の話に巻き込まれ通知を鳴らされるようなオンラインの「グループ」への参加を拒否したりしています。通知をオフにしていても、こちらは見ていた、確認した前提で話をされるのも変ですし、それについていくために会話を読み直すということにも興味がないので全て拒否しています。
もちろん不意打ちのような、偶然性のある情報に触れるということも良いと思いますが、そうしたものはそれを意図した時にだけでも良いと思っています。
ただ、先日久々に意味なく普段は見ないようなニュースサイトを覗いてみましたが、3分位で「時間の無駄だった」という判断が下りました。手軽さはありますが、情報ソースとして、そうしたものはやはりあまり良いものではないと思いました。
暇が苦痛で暇つぶし
「暇が苦痛で暇つぶし」ということなのであれば、暇をつぶすということに意識を向けるのではなく、「暇が苦痛」という根本問題に対してそれと向き合ったほうが賢明です。
世間で「暇が苦痛で暇つぶし」があまり問題視されないという理由は簡単で、「暇が苦痛であるのならば暇つぶしを用意します」という方が儲かるからであり、情報を操作して自己都合に誘導しやすいからです。
一種の消耗品として情報を扱ったほうが何かと都合がいいという感じです。
そういうわけなので、暇をつぶすための消費的な情報の発信なども加速しているという感じになっているのでしょう。
といっても話題探しや話題に関する発信などは、暇が苦痛という点だけでなく、根本には広い意味でのモテへの意識があります。
「もしかしたら誰かが引っかかってくれるのではないか?」という意識がどこかしらあるような気がします。
まあどちらにしても「暇」という感じになるのでしょう。
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