陶酔への信仰

信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。

そんな人には「科学主義という一種の宗教に属していて、その柵からしか物事を見ることが出来ない錯覚の内にいるのだ」、と言ってあげてください。

科学と言っても一般に思われている理科や自然科学だけではなく、人文科学や社会科学というものがあります。その時の科学を思い浮かべればすぐにわかるでしょう。何かを区別分類して、様々な公式を組み立てていったりすること、というようなことです。

科学とは端的には、対象の差を理解してラベリングして整理して、分類して応用していくということです。最近では「マンガ」すらその対象になったので学問としてマンガ学部というものができたということです。

それは学問的な意義はあるのかもしれませんが、何かをその枠内で判断して、それでその後どうするのでしょうか。

「求める結果」が先にあってそのための方法論の模索として科学な方法が応用されていきます。実験をしていて偶然、ということもありますが、概ねそのような感じになっています。

科学全般において、ある結果を得るために、仮説を立てて検証する、といったプロセスがとられます。

実験をしていて偶然何か目的以外のものが見つかっても、その時点で「そうか、それならばあれに使えるかも」と、求める結果対象が変わるだけです。

そういう意味で、科学をもって何がしたいのでしょうか。その科学的実験の対象として「人の分類」ということがなされたりもします。そうした分類をして得たい結果は何でしょうか。

「無宗派という宗教」というようなカテゴライズには何の意味があるのでしょうか。

その分類が行政として社会福祉にかかる費用の計算のもととして、年齢別人口の統計とったり、だいたい何歳くらいから病気が増えるというデータを取るのとはわけが違います。

おそらく敵か味方か、くらいのものでしょう。なぜそのような解析結果を得たいのでしょうか。それは身を守るためです。つまり恐怖心です。

自らの心にはなんの役にも立ちません。

「信仰」って自己欺瞞でしょ?

世間ではほとんどが信仰を持っています。そしてその信仰の正しさを主張することで苦しんでいるというのが実情でしょう。誰に何を訴えかけているのでしょうか。

僕には信仰というものがありません。

ただの事実アタリマエのことにしか興味がありません。

その事実当たり前のことは、先人たちが言葉でラベリングして残してくれています。

しかしその先人が先に考えを残そうが残すまいが、事実当たり前のことは、言語でラベリングされなくても、いつでもどこでもあるはずです。

ですから、先人と考えが一緒になることもあるでしょう。異なる先人が、違う表現で遺したものもあるでしょう。

伝統的正当性や権威性からの盲信的信仰

だからといって、その先人たちを信仰するというのは違います。

「すごい人が言っているんだから自分には分からないが、そうなんだと信じよう」、「ありがたいから拝もう、拝んだらなんとかなる」、「あの人が言っていることに間違いはないはずだから、異論は認めんぞ」

それは一種の依存・執着です。

そもそも「その人」のいうことが正しいと決めたのは自分です。

どのようにして決めたのでしょうか?

伝統的正当性でしょうか、民主主義的正当性でしょうか?

それとも都合が良かったからでしょうか、慣れ親しんだものだったからでしょうか?

何かしらの権威性を感じたからでしょうか?

事実そのものには「その人」は不要です。確かに事実の説明などは「その人」が遺したものかもしれませんが、その人を拝んだり、盲信するというのはおかしな話です。

事実は先人の言葉と重複する

自分で編み出すんだ、自分で決めるんだ、というのも違います。

それも、「オリジナルでなければならない」という、一種の先人への依存・執着です。

事実は単なる事実です。先人が遺したものであっても、自分で再現できるものです。うまく再現できない場合の対処法も記してくれていたりします。

そこには著作権もクソもありません。

「ほう、なるほど」

と、理解に努めることはいいでしょう。

妄想ゆえに曖昧で信仰を必要とする

理解も体感もできず、「わからないけど、すごそうだから信じよう」というのは無理をしている証拠です。疑っているのに、無理やり信じ込もうとしていることです。それは無知から起こり、妄想から起こります。

曖昧なことをいう人は、妄想で言っているだけですから、確認が取れず、再現もできないものは絵空事です。

葬式をして「これで極楽浄土に行きました」と説明をされて、本当に心底疑いもなく納得できるのはどうしてでしょうか。

「うーん。まあわからないけど、ひとまずわからないから、もしそうだった場合に備えて、一応やっておこうか、高いけど」

くらいにしか思っていないはずです。脅しに屈した、それだけです。

本当にそう思うためには信仰が必要です。「必ずそうなんだ!」と洗脳状態でないとそんなことは思いません。どこで確認をとったのでしょうか。

ちなみに「極楽浄土」を目で見ても、目で見えてるだけ、頭の中に浮かんだことは、頭の中で浮かんだということ、たったそれだけです。

先人たちはいわば上下もクソもない、ただの先輩です。間違っても「おまえの金で、オレに焼きそばパンを買ってこい」とは言わないでしょう。

事実というものはひとつしかありません。解釈は異なれど、その説明は多方向からできるものの、必ず一つになります。到達への道はたくさんあるかもしれませんが、到達点はひとつです。

到達点がひとつしか無いのならば、到達すれば、先輩であっても同格です。先に生まれて先に到達したというだけですから。ただ同格と言っても、組織の中での優先順位というようなタイプのものではありません。どちらかが優遇され、偉そうにしていい、というものでもありません。それは会社であれ、国家であれ、家族であれ、組織・社会というモノの枠組みの中での話です。

そういうわけで信仰というものはありません。周りにどう判断されようが、どうラベリングされようが、そんなものはありません。

陶酔への信仰 曙光 50


妄想は感情や感覚を思考上の知識でこじつけることから生まれます。まず先に、不安感、劣等感、罪悪感などの何かしらネガティブな感情や身体的不快感という感覚があり、そのつじつま合わせとして思考が回転し妄想が起こります。

妄想は感情を知識がこじつけることで生まれる

信仰と呼ばれるものは自己欺瞞であり、書き換えが可能な信念です。それらは全て不完全な論理構造をしており、端的には不可知領域や二律背反するような命題に対する一解釈にしか過ぎません。それが唯一絶対かどうかを示し得ないもの、確認し得ないものに対して、無理思い込もうとすることが信仰であり、その不完全なものに対する精神的執著が信念というような格好になっています。

信念の書き換えと未来についての不完全な論理構造

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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