認識の悲劇の終幕

以前に書きましたが、認識の悲劇は、がっかりによって終りを迎えます。「最大のがっかり

「自己犠牲が一番の人間向上の手段であった」と、ニーチェは触れていますが、今でもよくブラック企業などはそんなことを言います。

何のために自己犠牲ということをしてしまうのでしょうか。おそらくその点については触れられること無く、自己犠牲の先に「何かの意志に適う」ということを盲信しているという構図です。

自己犠牲の精神からの脱却

認識の悲劇の終幕ということで自己犠牲の力とがっかりについてから進めていこうと思います。

自己犠牲の力と「がっかり」

自己犠牲をもって自分を支えていると、犠牲を捧げていた対象がなくなったり、それが間違いだと気付いた時に大きながっかりがやってきます。

自己犠牲の力によって自分を支えているという構造の中、自分を犠牲にしている対象への依存度が高い場合、仮にそれを失った時にはその依存度に比例して「がっかり」するでしょう。

このがっかりを回避するために、異なった意見や指針があるとムキになります。そして勝てないとわかれば、ルサンチマン、つまり奴隷精神の方向へ進みます。

「幸せとはこういうことだ、それに向かうには、この解釈が正当なのだ」という自己説得です。奴隷の道徳と表現したほうが良いのかもしれません。

我が子への依存

よく見る「自己犠牲とがっかり」ケースは我が子への依存です。よく「子供のために」と、自分を犠牲にしていることが美しいことであり、また自己陶酔の源泉なのだと思っているフシがありますが、そういった依存が、苦しみの原因になるということで、「妻子を捨ててついてきなさい」とセイントおにいさんたちは言います。

世の中において、我が子への依存、執著は当然のことのように語られ、賛美の対象にすらなり得る形となっています。しかしながら、自己犠牲の要素があり、また、相手に自分の心の状態を委ねているのであれば、それは苦しみの原因となります。

信仰対象がなくなった時

仮にある宗教にハマっている人が、その信仰対象がなくなった時にはがっかりするでしょう。自分を犠牲にする「対象」としての何かがなくなった時には極めてがっかりするものです。

がっかりするということは、それまで頼りにしていたということであり、一種のアイデンティティ形成にかなりの貢献をしていたということです。

自分を犠牲にしている時には相手と一体になったような気がします。それが他の存在同士がくっつけないのにくっつける唯一の手段だと錯覚します。

弱者は強者とくっつく、つまりは一体になっているような感覚で陶酔します。ただそれは錯覚です。大企業に自己犠牲をしたところで、自分が大企業そのものになっているわけではありません。自己犠牲を美徳のように説いてはいけません。

認識の悲劇の最終章

しかしながら、他の存在に依存し、自己犠牲をもって陶酔することは、よくある光景ながらもまだまだ次元が低い話です。

他者への依存と自己犠牲から、さらにすすめて、自己犠牲という錯覚をよくよく観察すると、自分というものに自己犠牲を行っているという一見わかりにくい構図が見えてきます。

よく例えとして出てくると思いますが、おしっこがしたくなければおしっこに行かなくてもすみます。

腹が減らなければ、腹は減りません。空腹の苦しみもありません。「早く何かを食べろ」という衝動も起こりません。衝動によって行動することもありません。行動によって疲れることも、あれこれ考えることも、何もする必要がなくなります。

やっているようでやらされているだけであり、不足を与えられてそれに対応しているだけなのだから一切行苦という感じになります。この場合は一切皆苦の方がわかりやすいかもしれません。

思考の回転と感情

外にいて何かをする「必要はない」のに、独りで部屋にいてもなかなか落ち着きません。独りでいると思考が止まらず、次々に思考がめぐり、感情が起こり、その感情にそわそわさせられます。

止めようと思っても、一瞬止めてもまた回転が始まり、思考の回転が始まれば、また、何かの感情が起こります。その間にも身体からは快や不快のデータが止まることなく送られてきます。

しかし、それはそれとして、それがどうしたのでしょうか。その衝動に必死に対応しているというのは、対象が他者から自分に変わっただけで、自己犠牲と変わりありません。

自分とは一体どこにあるのか?

その前に、では自分とは一体どこにあるのでしょうか。個人という人格に付けられた様々な属性は、属性であって、自分ではありません。

男だからといって、男が自分かと言われればそれは違います。逆方向にイコールでつなぐことはできません。その属性の集大成が「アイツ」であり、実体はありません。

万物とか、すべての概念などなど、完全にすべてを包括した集合の中から、自分をかけて出てくる答えがアイツです。

思考回路の集大成

男か女かで言うと男、動物か植物かで言うと動物、など、その集合体にしか過ぎないのですから、何者かの特定はできません。

Aという現象を認識した時に、Bという条件のもとならCという反応を示す、その思考回路の集大成でもあります。思考回路に実体はありません。

この自分の「考え方」というものや動機といったものですら、他のものとの関係性の中で形成されたにすぎず、「この私」はオリジナルでも何でもなければ、固定的な我が存在しているということではありません。

諸法無我

固定的な我が有るというわけではなく、我すら瞬間瞬間に変化するという感じになっています。

瞬間瞬間で変化

体一つとっても常に変化をしています。今の自分と一秒前の自分も似たもの、似た働きが連続しているかのように起こっているだけで、別物といえば別物、同じようで違う、一瞬たりとも同じ自分であった試しはありません(諸行無常)。

この今の現象は一度限りであり、それは物理的に起こったことであろうがそれを認知した自分の中での捉え方であろうが、気持ちとしての動機や感情であろうが全ては常に変化しており、いっときたりとも同じであったことなどありません。

一切の形成されたものは無常であるという感じになります。

身体も瞬間瞬間で変化しています。さらに人の意見を聞いて、そのような思考回路すらすぐに変わってしまうのなら、変わらない自分というものはどこにあるのでしょうか。

「錯覚」と聞くと、自分のそれまで持っていた考え方を否定されるような気持ちになって感情的に抵抗感がでてきます。しかしながら、その意見は、どこに信憑性があるのでしょうか。

「感情」によって抵抗する

どうやってその意見を手に入れて、どうしてそれを正しいと信じて、手放そうとはしないのでしょうか。そのプロセスすらも説明できないものを、「感情」によって抵抗しています。しかし、手放して都合の悪いことは一つもありません。

「こういうアイデンティティがあるから、こんな楽しみがあるんだ、それを手放すものか」というものには、その裏側に「そのアイデンティティがあるからこそある苦しみもある」ということをお忘れなく。

目の前に起こる全てを愛でる

失って苦しくなるようなものは持ってはいけません。そうした苦しみは執著が発端となって生起します。

失っても苦しくならないような「認識の悲劇の終幕」が終わったあとに、ただ、流れるように進む中で、「これも一時的な現象にしか過ぎない」と、あきらめながら、執着することも苦悶することもなく、また、喜びに足元をすくわれることなく、渇望することもなく、必ず別れが来ることを忘れずに、目の前に起こる全てを愛でてみてはいかがでしょうか。

認識の悲劇の終幕 曙光 45

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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