大人数の人々は、彼らがその「利己主義」について何を考え、何を言おうとも、それにもかかわらず、一生涯自分たちの自我のためになることは何も行わずに、彼らの周囲の人々の頭の中で彼らに関して形作られ、そして彼らに伝えられた自我の幻影のためになることだけしか行わない。―その結果彼らはすべて一緒に、非個人的な意見や半個人的な意見、勝手な、いわば文学的な評価の霧の中で暮らしている。あるものは、いつも他者の頭の中で、この頭はまた他の人の頭の中で、というようにして暮らしている。奇妙な幻影の世界であり、それは同時に非常に冷静な外見を呈することを心得ている!意見と習慣とこの霧は、それが包む人間たちとはほとんど無関係に生じ、また存続する。 曙光 105 前半
ある人がある主義、ある意見を持っていたとしても、たとえば曙光の引用を拝借するならば「利己主義」について何を考えても、そういった「利己主義自体」は本人が決定したというよりも、周囲の人々によって形成されたものなのかもしれません。
すなわち、ある主義を採用するということ、決定の許容、決定プロセス、それらは周囲の人々によって作られた、ということです。
許容する意識のプロセスすらも外界から形成されたもの
特に利己主義に限らずとも、例えば「お母さんに言われた」という現象がトリガーとなってある行動をとった場合、「この道をいきなさいとお母さんに言われた」ことを許容しているあなたが悪いのだということになり、そうした「お母さんの言ったこと」を許可したあなたに責任があると帰結されそうな所です。
しかしながらその先には、許容する意識のプロセスすらもお母さんによって形作られたものならば、良い悪いはナンセンスであるはずです。
「お母さんの意見を採用する」という思考のパターンすらもお母さんからの影響で形成されたのだから、そうした考え方を持っている本人だけが悪いとするのは変だ、という感じです。
奇妙な幻影の世界
「お母さんに言われたから」という理由らしきもので行った行動は何かしらの結果をもたらします。そしてその結果によって生じる現象の変化(周りの環境の変化など)から、ある種の感情などが起こります。
意図としての原因の一つが、お母さんに言われたからというものであっても、その行動の結果自体から自分には感情などの信号が起こるということです。
そしてまた、その感情を求めてまた行動を起こすということになります。
というわけで、その感情への欲求が行動を決定させたことはよく見るとすぐにわかります。それが脅し的なものであれば怒りからの恐怖です。
よくよく分解して考えると、お母さんの頭の中に基準があり、お母さんの意見を採用するという自分の頭の中での基準も、原因としてはお母さんなどから形作られています。
しかし、当のお母さん自体もお母さん自身が独立して生み出した考えではありません。そう考えると、どこにも発端、出発点など見つけられそうにありません。
意見と習慣と霧はそれぞれの人とほとんど無関係に生じ、また存続していく
まさにニーチェが言うように奇妙な幻影の世界であり、意見と習慣とこの霧は、それが包む人間たちとはほとんど無関係に生じ、また存続していくでしょう。
それをぶち破るには、他人の「意見」というものを参考にしてもいいですが、依存していては永久に脱することはできません。
発端がどこかはわからない意見と意見が交じり合った「新種の意見」はたくさんありますが、霧を頼りにしているようなものです。
霧は確かに目の前で見えますが、実体があるのかないのかわからないような空虚なものです。それはただ、それだけのこと。あるにはあるがないといえばないようなものです。
それを錯覚だといち早く気づいて、その霧を見せているものは、他でもない、アイツであり、周りに何か実在しているかのようにみせつつ、自分というものが実在していると思わせ、「これが自分だ」と信じこませている「アイツ」なのだということに気づいてみましょう。
見せかけの利己主義 曙光 105
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