自分の木で

甲。どんな思想家の思想を聞いても、僕は自分の思想ほど多くの満足を感じない。 曙光 493 序

甲。どんな思想家の思想を聞いても、僕は自分の思想ほど多くの満足を感じない。

bossu。どんな思想家の思想を聞いても、それが「思想」である限り、思想の領域を出ることはない。

というイントロで始まりました、「自分の木で」です。

「木」には、すごく見習うところがあります。「純粋な知性」で少し触れましたが、基本的に他の生命を殺さず、また、動くことを手放しており、同時に痛覚もなく、切られても泣きわめくことがありません。

「気になる」という場面があったとき、「木になる」という胡散臭いコンサルや飲んだくれのおっさんのような言葉遊びで、木のようになってみてはいかがでしょうか。

自分が木なら

人間というか動物ならば、五感という5つのチャンネルがあります。

これは動いてエネルギー源を食べて、外敵からは逃げて、という場合に5つのチャンネルから情報を得て、トータルで意識上で判断して行動を決定したがほうが合理的だからこそ組み込まれている、というふうに捉えてみましょう。

違うふうに捉えようと、結局五感自体は無くなりませんから、どう捉えようと五感という機能と情報の伝達自体はあることにしましょう。何か身体に障害があればチャンネルが減るということもありますが、一般的な五体満足で考えましょう。

意識不明の場合

意識不明の場合は、文字通り「意識」が働いていません。五感による信号をどう解釈して総合判断しているか、というところが停止している状態です。

本当に意識が無ければ、意識不明になった時から10日経っていようがいきなり次の瞬間が始まりだすはずです。

五感に対応する感覚器官

そこで、木には、一応脳がないので意識の上での「モヤモヤ」した判断に迷うということがなく、一方では「ただ生きようとする意志」があり、また動物でいう五感に対応する感覚器官が無いか、あっても情報量が必要最小限に抑えられています。

しかし、一応心の構造は同じです。信号が異なるだけで、植物も感じて生きています。感じていなければ、光の指す方向へ葉の表面を向けようというようなことをしません。

心への信号と、意識の有無の差くらいです。

木を見習って現象を傍観

では、木を見習って、目の前に起こる現象を傍観してみましょう。

見ても見えているだけ、それ以上はありません。その瞬間の現象をただ捉えたというだけになります。

木のように「光を感じた」というだけ、といえば、動物だって光を感じただけです。

大きな音で体が条件反射で震えても、「大きな音に体が反応して震えただけ」です。

いまこの瞬間に5つのチャンネルから、何かの情報が瞬間的に入り込んでいるだけ、という事実を傍観してみてください。

そこに意識は必要ありません。使ってもいいですが、使わなくてもいいことです。

今現在は、今現在感じている五感の情報だけ

明日、社会人になって初めてのプレゼンがあって、緊張しているという状態でも、その状態は意識による無駄な信号です。

起こることが明日ならば、今現在は、今現在感じている五感の情報だけです。

明日、プレゼン本番になっても、その時感じている五感の情報だけが直接入力されている信号です。

その五感の情報は、生命の危機を感じるほどに「暑い」とか、「鼓膜が破れるほどの爆音」とか、そういったものではないはずです。

すると、緊張の元凶は何なのでしょうか?

その正体を暴いたとき、おそらく憂いのほどんどが消えてなくなるでしょう。

一瞬緊張が流れても、すぐにその緊張が流れていくことが体感できるかもしれません。

自分の木で 曙光 493

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Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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