すなわち自我[エゴ]を避け、憎み、そして他人の中で生き、他人のために生きるということを― これまでわれわれは、確信を抱いて、また同じように軽率に、「非利己的」したがって「よい」と呼んできた! 曙光 516 文末
「自分の内的な力を身近な人たちの中に放棄しない!」ということをニーチェが書いています。
一応、彼の言う「エゴ(ego)」は自己中心的というような意味になるでしょうか。僕の言う「アイツ」とは若干ニュアンスが違うような気もしますが、詳しくはニーチェに聞いてください。
「和を以って貴しとなす」
なんてな言葉もありますが、和は「なごむ」みたいな意味なので、気を遣って同調するという意味ではありません。
で、こうした言葉を使って自分の都合を押し付けてくる人がいます。
そうなると、何も和めません。
もともとMr.脳筋から来ているような言葉ですが、こうした言葉は本当に悪用されやすい傾向にあります。
功利主義的な脅迫
公共や公益、公共の福祉みたいな言葉を使ってくる場合でも、結局「説得してくる人の都合だけ」という場合もたくさんあります。功利主義的な脅迫です。
自分では何も負担しないまま「お互い様」という言葉を連呼するのが近所の共◯党のおっさんです。
お互い様といいながら、自分の都合を押し付けてくる輩です。伝家の宝刀のように「お互い様」とさえ言えば、相手は良心の呵責が起こり、言うことを聞くだろうという彼なりの成功法則です。
こういったタイプの「非利己的」であることが美徳であり、全体の利益が最優先であり、それに協調するのが正しいのだ、とする人はまあまあいます。
自己都合の割に従わないと謀反者と扱う人たち
でも、よく見てみると、ただその主義の人達の自己都合だったりします。
労働組合の勧誘などはいい例でしたね。
なぜ、労働組合に加入しないことが和を乱すことになるのかはわかりません。
組合費を徴収して、幹部はゴルフに行くのがせいぜいの割に、カツアゲを正当化しているのもいいところです。
僕はそんなお金があるなら、寄付したりしたほうがマシだと思っただけなのですが、そんな僕の「エゴ」は否定され、なぜか謀反者とすら扱われたのです。
勤め人を続けなかったのはこうした理由も大きく影響しています。
仕事やお客は好きでも上司や組織は嫌いという場合
仕事内容は好きで、お客さんのことが好きでも、上司が嫌だとか、この仕事自体を続けたくても、休みに労働組合の集まりに参加しないと職場で無視されるとか、そういった無駄な苦しみの要素はたくさんあります。
実感のある方も多いでしょう。
人に合わせるということが美徳ということはありません。
そういう相手はこちらに合わせていないのだから、論理が成立していないのです。
「他人のために生きることが尊い」と言っている人もあなたにとっては他人なのだというところから、人の都合に振り回されていないかというところを見つめ直しても良いでしょう。
「年上が偉い」という狂気
「脳筋」を例としましょう。
「なぜ年上が偉いのか?」ということを理詰めで聞いてみると、まともな答えが返ってきません。
理由は簡単です。論理構成に不足があるからです。
世の中では何かしらで上下関係が生まれる場合があります。
その場合は一応「権限」というものを持ち出すことができます。
AさんはBというものを欲していて、CさんはAさんにBというものを与えるかどうかの権限を持っているという場合、一応上下関係が生まれます。
ただ、AさんがBを欲しくないと思い直せば、その関係は消滅します。
これは学校に通うことと卒業することを欲している場合、学校側もしくは学校に一部権限を渡されている教員の方が多少なりと偉くなるという感じの構造です。でも学生が学校に通うことや卒業することを放棄すれば、その上下関係はなくなります。
という単純な構造です。
という中、「年上」というものは、何の権限を持っているのでしょうか?
いいところ、その年上さんが先に形成した「場、空間」の中で、居心地が良いかどうかという程度ではないでしょうか?
では、その場に加わることを求めていない人はどうなるでしょうか?
その場における権限は機能しません。
ということを踏まえて、僕は年上が偉いとは思っていませんが、相手から見ると僕は狂人です。
それに同調しないことを「攻撃された」と勝手に思い込みます。
「知能が低い」という感じがしないでしょうか?
自分の内的な力を身近な人たちの中に放棄しない! 曙光 516
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