これで1500記事目になります。ブログ創設から1500回目の投稿ということで「第1500回投稿記念」です。
前回の第1400回投稿記念は、2018年12月2日で、前回からの100記事は、半年くらいかけて投稿したという感じです。通常投稿ばかりだとやはり緩やかですね。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。
また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。たくさんの気づきがありました。
それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。
アクセス状況
ちょうど半年くらいになりますが、前回の2018年12月2日から2019年6月1日までの間のユーザーさんの数は、114,028名であり、前回は94,348で、ちょうど半年で計上していたので良い比較になりました。
この半年とその前の期間を比較すると「94,348」から「114,028」へと増加という感じになります。
次に訪問者の多いエリアですが、今回は市町村で分類してみました。23区は市扱いされています。トップ20です。
大阪市、新宿区、横浜市、港区、名古屋市、福岡市、京都市、札幌市、中央区、さいたま市、渋谷区、神戸市、世田谷区、仙台市、千葉市、広島市、川崎市、千代田区、新潟市、岡山市
男女比は相変わらずほぼ半々で、男性49.6%、女性50.4%でした。
なお、アクセスは検索経由が91.7%です。
ソーシャル メディアからの参照を経由したセッションが、1,354ありましたが、大半がTwitterであるものの、Facebookも230ほどありました。「大半の方が実名で共有されているのか…」とも思ってしまいました。
サイト内検索
さて、毎度おなじみサイト内検索です。
今回は、2294ワードでした。
検索回数が多かったものは次の通りです。
- 自我
- 群れ
- 公務員
- 洗脳
- B層
- 飲み会
- Z会
- ニヒリズム
- モテ
- 怒り
- 読書
- ニート
- やる気
- 恋
笑わせてもらったものは
- ○玉 逆転
- 糞袋
あたりでしょうか。
それとなぜか新世紀エヴァンゲリオン系のワードが結構ありました。
あと「10-FEET」というものがありましたので、ついでと言ってはなんですが10-FEETがメジャーになる前のライブのチケットの写真でも載せておきます。
さて、それでは投稿記念の回としていつもと違った感じで進めていきましょう。
理性と反骨
インターネット上でも普段でも僕の性格は特に変わりありません。ただ、やはり友人・知人たちが好きな僕の「部分」は、どちらかというと理性的に対処している僕ではなく、反骨精神というか暴力性すら感じるくらいの思い切りの部分だと思っています。
今やたとえ問題が起こってもすぐに理性だけで解決してしまうので、その雰囲気を味わうことは自分でもあまりありません。しかしながら、根っこにあるのは小6から中1あたり以降に形成されたロック精神なので、勢いで解決するというのが基本になっています。
最近では「怒られること」に耐性が無い割に、いかにも強気で攻めてくる人も多くなりましたが、実践の喧嘩すら経験したことのない人たちに負けるはずはありません、ということを思っていたりします。
少し前くらいには、「えらく強気だなぁ」と感心もしたりしました。しかしながらよくよく考えてみると、それは態度としては僕の感覚でいう「よほどの自信があるゆえの態度」とか「よほどの覚悟があるか、根性が据わっている」ではありますが、精神の奥底にある本質的なものとしてはそういうわけではなく「単にバカなのだ」ということに数年前に気づいたりしました。
「挨拶って必要ですか?」
「挨拶って必要ですか?」などという感じで主張してくる人がたまにいたりもします。しかし本来挨拶は必要か否かという問題ではありませし、挨拶に関してそう問うことは論理上ナンセンスなのですが、そうした裏には、きっと相手に頭を下げたくない的なものがあるのでしょう。
その結果を自分で受け取るだけなので、それはそれで自分の生き方として選択してもらうのはいいですが、外に主張するようなことでも何でも無いと思ったりします。
でも主張するということは、何かしら強く見せたい的なものがあるのだなぁと思ったりします。
そこで考えてみると、「挨拶をしない」ということは、かつては「下手をすると殴り合いの喧嘩になる」ということを受け入れて、それでも挨拶をしないという感じでした。
「挨拶って必要ですか?」というようなことを言っている人であっても、きっと相手が反社会的勢力の人であればきっとペコペコするのだろうと思います。
本来気が弱いため、喧嘩慣れはしていないもののバカなので時に横暴なことを主張してきたりするのですが、バイタル的にも論理的にも負けていることにすら気づかないほどなので、ただ、一喝するとそれで終わります。
それでも相手に責められないために、論理的に「必要ですか?」的なことを言っているのでしょう。
論理で決まって多数決で優勢になれば、自分は攻撃されないとでも思っているという程度です。
「怒られたくはないが、自由にしていたい、調子には乗りたい」という中、怒られないために群れて低レベルな論理を展開している、といった程度です。
反骨というと社会的強者へのものというのが一般的ですが、「多勢であればいけるだろう」と、横暴な主張をしてくるという感じもあるので、それに対して折れないということも大切です。
男性の弱体化
多勢に圧倒されているという感じなのか、特に男性が弱体化しているようにも感じることがあります。
「パワハラ」と言う言葉を伝家の宝刀のように扱う人たちに押され、ちょっとしたことですら言葉を飲み込んでしまうという弱々しさです。
別に実際の暴力や精神疾患になるレベルの連続した叱責でなければいいはずですが、近年では「叱るほうが悪い」とか「それくらいで怒るなど気が狂れている」くらいの論調です。
怒る叱るにはそれなりの理由があります。しかしながら、「誰かの迷惑になる」とか、「危険だ」とかそうしたものですら目を瞑れと言わんばかりであり、人を傷つけ、怒らせておいて居直る方が正しいような風潮です。
その根本には男性の弱体化があるような気がします。
仮に一元的に「パワハラ」などと言われクビになるとすれば、クビにするような会社からは去ればいいのです。去れないとすればそれはやはり弱体化です。
「何とでも言え、アホ」位の感覚でいきましょう。皮肉なことにその方が異性のみならず同性からもモテてしまうということも見逃すことはできません。
一から十まで「そうですね。うんうん」と相手に合わせていると好かれるのではなくナメられていくだけです。
ふと思い返すと、友人や周りの人たちは、僕のそんな反骨精神のことを好んでくれているような気がしました。下手にスマートに、知的に解決するよりも背中から熱を出すくらいの感覚です。
シンプルなものを難しくしてしまう不思議
あと、なんだか本来シンプルなものを難しくしてしまうような流れも生じているような気がします。
以前どこかで触れたかもしれませんが、知人でトップ営業の人は、数週間の泊まり込み研修の際、シンプルに行動し、「門限を気にせずに過ごす」ということを実行されていました。
その会社の研修所では門限が設定されておりその時間になると入口の門は閉まり、入口横の守衛室の警備員さんの見張りが一晩中つきます。
その人は、最初の一週間、門限ギリギリまでランニングし、帰り際に警備員さんに缶コーヒーなどを差し入れするということをしました。
シフトがあるので日によって担当の警備員さんは変わるのですが、すべての警備員さんに差し入れを複数回した後に、門限やぶりを実行しました。
仲良くなった警備員さんに「ちょっとだけすいません」と行って外出し、深夜に夜間通用門から入らせてもらうと言う感じで門限を突破しました。
もちろん、従業員としてのあり方としては問題があるかもしれませんが、本来世の中はそれくらいにシンプルです。
しかし、そんなシンプルさはあまり検討されることなく、「門限がある事自体が会社の拘束時間になるので、それは本来労働時間として扱わねばならないため、制限すべきではない」とか、「就業時間外の個人の自由を奪う行為である」などと言った感じで、話を難しくするということがよく起こっています。
まあそれはそれで議論すればいいことですが、自分だけのことであれば、ちょっとしたことで特別にすり抜けることもできるのに、全体を動かしてその構成員である自分が結果を受け取るという遠回りな感じを選んでいる場合もよくあるのではないでしょうか。
ちなみにその人は「豊臣秀吉を参考にした」と言っていました。
文の背景
先日、いくら短文であれ、メッセージ機能等々であれほど日常的に文章を作っているのに長文が書けないのはなぜかとか、意味不明な文になるのはなぜかということを考えたりしました。
携帯電話が普及してメール機能がついて以降、しばらくの間ずっと謎でしたが、何となくその答えが見えてきました。結局は、その語が示す意味を確定的にするためには背景が示されていないと相手には伝わらないということでした。
短文しか書けないとか意味不明な文になってしまう原因としては、語の定義ももちろんですが、「背景が不明」というところが根本原因であるということに気づきました。
「こないだのあれ頼むわ」
だけでは第三者は何も理解できません。
短文のメッセージ文でも成り立つのは、背景・前提が共有されているからです。
相手がどのような人物でどのような環境にあり、どのような状況にあるかということが時系列的につながっているので、それ単独では理解できないような短文でも理解できます。が、何も背景を知らない人相手に文を作るときはある程度その状況や定義を示しておく必要があります。
本ブログでも、過去の投稿を読了した上でなら理解できることであっても、単一投稿なら理解できないという点は多々あると思います。ある程度定義を再掲したり、背景を示したりすることもありますが、無駄にさらなる長文化を招きユーザーさんの辟易を生むことになりますし、毎度毎度は野暮ったいので避けています。
「なぜかTwitterにされている」といった感じで触れたこともありましたが、特に仕事上でも「それだけでは意味がわからないようなメール」が来ることがあります。
それは文章を作成する本人が全体像を捉えていないからこそ起こることだと思います。
逆に言えば全体を捉えて背景を示すことができれば文章が苦手な人でも作成がうまくなっていくと思います。
というようなことを先日思いました。
日常の「意見」についても、目的や全体がぼやけるとタダの譫言と判断されるため、達成目標や定義をすり合わせた上で何がしたいのかをある程度はっきり示したほうが軋轢を避けることができます。
プラーナ
と、社会を中心に一般的な話が続きましたが、投稿記念の回は基本的に常連さん向けであり、検索経由の一見さんがいきなり見ると勘違いをする可能性があるため単一投稿としては触れないことについて触れていきます。そういえばタオなどの検索ワードもあったなぁということで、プラーナについてちょっとだけ触れていきます。
プラーナというといわゆる氣のようなものですが、俗人がそのような概念を知ると、やれ「成功しよう(笑)」とか「治療で儲けよう」とかその程度の発想しかできません。
タオで考えると、小周天や大周天というようなものがありますが、あの程度ならば誰でも余裕でできるはずです。
それはそれでいいですが、それで仙人にでもなったつもりになって執著を生み出したりしているようでは、心に安穏はありません。
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まあ哲学的に考えると、物理的なものもすべてその空間の状態にしか過ぎないので、別に摩訶不思議なことでも何でも無いのですが、物理的な認知に慣れている人にとってはプラーナは変な概念のように映るはずです。
また、集中というと「力み」というふうに捉えてしまう人がいるように、そうした概念も物理的に観測できる力学的エネルギーだと考えてしまう人もいると思います。
ただそうしたプラーナという概念を知ることや体感すること、そして活性させるくらいはいいですが、それを「何かの目的に使おう」と思うと執著が生まれ心から安らぎが奪われます。
プラーナに満ちて元気なのはいいですが、結局生命への執著から起こる苦しみを受け取ることになりかねません。
下手をするとインドにハマった人のようになり、カルト化していく可能性すらあります。
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まあ遠く離れていても空気は繋がっているのと同じように、物理という尺度で考えると間にたくさんの壁のようなものがありそうに見えて、それは単に五感というチャネルからの認知で限定をなしているからそう感じるというだけです。
そのような感じで滞りが活力を削いでいるだけで、本来はどこにでも満ちているというのが本来の姿です。それを体感領域で気づくかどうか程度であり、内と外とのエネルギーの関係という感じではありません。そう捉えることもできますが、本質的にはそんな感じではないということになります。
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なんだかんだで1500記事に達しました。
それでは引き続きご愛読くださいませ。
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