生きることに不器用な人たちということで、不器用な生き方についてでも書いていこうと思います。
先に結論から言うと、最も不器用な人は「不器用であることに気付いていない人」です。だからこそ「自分は不器用だ」と気付いている人の方がチャンスが多いということになります。
そして自分が不器用だと気づいている人は、その不器用さを乗り越えた時に自分がたどったような道で迷っている人たちにアドバイスがしやすいという強みがあります。
そんな感じで生きることに不器用な人たちについて触れていきます。
不器用な人が後で開花する
勤め人の頃、前職で塾の講師をしていた人に次のようなことを聞いたことがあります。
「自分自身勉強ができなかったという人の方が、学力に伸び悩んでいる生徒が今どこで躓いているかに気付きやすい」
そんなことを聞いて「ああなるほど」と思ったものです。
もちろん元々勉強ができた人でも経験を積んでいけばそうしたことに対応できるようになっていくとは思いますが、器用な人ほど不器用な人がどこで詰まっているのか、何に躓いているのかが見えにくい傾向にあります。
いずれにしても、達人級になれば全てが見渡せるようになると思いますが、基本的にプロになればなるほど「間違い」や「間違えてしまう考え方」が見えなくなり、代わりに正解や正解を導き出す考え方がよく見えるようになるという感じです。
正解を導き出す考え方を伝えることができればいずれにしても結果は良いものになっていきますが、何に躓いているのかが見えないと時に理解を深めにくくなったりもします。
どこで詰まっているのか、何に躓いているのかが見える
そういう意味では不器用に生きてきた人は、自らの経験の上で「ここで詰まった」というデータを持っているので、そうしたポイントを発見しやすかったりします。
そうしたものは後になって自分が教える側になった時に強みになります。
ということで不器用だとしても、それに気付いているのならば特に問題はありません。歩むことを止めさえしなければ、ある閾値に達した時に一気に花が開くからです。
不器用であることに気付いていない人
それよりも本質的に不器用で、多くの問題を生じさせてしまうのが「不器用であることに気付いていない人たち」です。
それは器用であると思いこんでいるからこそ能力が向上しないという面だけではなく、不器用であることに気付いていないからこそ知らぬ間に監獄の内にいるような状態になり、いつまでも煩悶し続けてしまうという面になります。
声を上げるという方法論
例として最もわかりやすいのは、デモ行進などをしている人たちです。
確かに何かに対して正義感からそうした行動を起こそうというエネルギー自体は良いですが、考え方が不器用なのです。
例えば、「ある企業の体質を変えたい」と思ったとします。
そうなると、そういう人たちは「声を上げる」ということしか思いつきません。
しかしやり方は他にもいっぱいあります。株式を押さえて会社自体をコントロールするとか、複数のライバル会社を買収して合併し、競争力の面で圧力をかけて体質を変えざるを得ないようにしていくというような方法もあります。
買収するにあたって、買収費用を抑えるために株価を低下させる目的でデモをやっているのならば大したものですが、おそらくそうした意図はありません。
労働環境の改善を叫んでいる人達
そのような感じで労働環境の改善を叫んだりしている人たちもいます。
そういう人たちは、あくまで自分が快適だと思う空間や人間関係はある程度残しながら、環境の一部を自分たちの都合の良いように変えるために「説得」するということをしています。
しかしこのケースでももちろん他にやり方があります。労働環境の改善を叫ぶというような方法論を取らずに転職してもいいですし、独立してもよいはずです。退職し自分が不満だと思った点を改善するような形で素晴らしい企業を創るということだってできます。
マクロ的に見た場合、個々人が労働環境の悪いところから良いところに転職を続けていけば、結局の所ブラック体質の企業には労働力が集まらなくなるので、そうした転職を活性化することや、そうしたこと受けていっそ転職してしまうということも理論上は選択肢としてあるはずです。
「私は真っ当な道を進んでいる」と自負する人たちの冷めた目
そういえば十代の頃、下級生と道端でばったり会ったときに冷めた目で見られたことがありました。
当時僕は病中で、ほとんどニートのような状態でしたが、当のその人は歯科衛生学校に行っていました。その後歯科助手になって、後に公務員と結婚したような人です。
その時確かに僕は蔑んだ目で見られたことを覚えています。
「私は真っ当な道を進んでいる」
そのような感じです。もちろん人を蔑むという行動は「いい人ではないと思われる」のでそうしたことも露骨にはしません。
たいていデモ行進などをしているのはそのような「自分は損をするような生き方はしていない。真っ当な道を真面目に進んできた」と思い込んでいる人たちです。
そうした人たちは、紆余曲折をたどっている人たちを冷めた目で見ています。
「私達はそんな馬鹿なことはしない」
そのような感じでどこかしらエリートを気取っているようなフシもあります。
言われたとおりの「真面目」
しかしながら、「損をするような生き方をしていない」と居直るのは結構ですが、様々な成果はリスクを受け容れた人にしか訪れません。ということで結局そのタイプの人からは大成する人たちは出てこないのです。
そんな中、「自分たちは言われたとおりに真面目にやってきたのに周りの対応は何だ!」と後で歯軋りするのです。
それが労働環境の改善を叫んでいる人達の特徴です。
必死で守る「安いプライド」
あえて経済人としての僕が、包み隠さずその人達をどう捉えるかを表現するとすれば「安いプライドを必死で守っている単なるバカ」です。だから同情もしません。
もちろん勤め先企業にも問題はあるのでしょう。だから言っていることが間違いとは言いません。
ただ、
「器用に生きてきたと思うなら、器用にやりこなしてみたらどうですか?」
ということです。できるものならね。
「駄々をこねること」と「経験不足」
こういう人たちはとどのつまり「自分が不器用だということに気付いていない人たち」です。
しかしこれには原因があります。
それは子供の頃についてしまった「駄々をこねれば叶うかもしれない」という記憶や「それ以外のやり方を知ることもなければやったこともない」という一種の経験不足です。
いわば「声を上げること」だけが成功法則になっているという感じです。
浅いところで「これさえやっておけばいいんだ」と思い込んでいる人たちです。
就活や婚活をしながらいつまでも良い話にならない人、形だけは良い話になったように見えて結果は散々だったという人、そうした人たちは、「これさえやっておけばいいんだ」という感じで自分たちに非はないと思い込んでいます。
もちろんある意味で非はないのですが、そういう問題ではありません。
そして「居直りにも似た形」で、自分たちが不器用であることに気付いていませんし、同時に圧倒的に何かの経験値が不足しているという場合がほとんどです。
こうした人達は本質的には不器用ですが、不器用であることにすら気付いていません。
だから新しい発想法を知ろうともしないし、思考実験もしなければ、他の方法を試すということもしないのです。
経験値としての大量の情報と思考実験
もちろん自分は器用だと思うこと自体は、物事に取り組む時にリラックスできるのでそれ自体は問題はないのですが、居直りや慢心のような思い込みの場合は問題を生じさせることになります。
自分が不器用だということに気付いている人たちは、少なからずその不器用を克服していこうという意図を持っています。そしてその意図さえあれば情報の収集や思考実験を繰り返し、実際の経験として新しい行動を起こしたりもするはずです。
ということでまずは勤め人時代に実際に考えたことについてご紹介していきましょう。
とにかく今見える範囲で考え抜く
まず、僕は当時の支店長のような人が嫌いです。人生でトップ10に入るくらいに嫌いです。今でもその気持ちは変わりません。
しかしわれわれは諸君を信用しないで少しだけ触れていましたが、よく意味なく「とばっちり的」に罵声を浴びせられていました。
やり方としては労働組合で触れたような形でコンプライアンス室に連絡し、パワハラ案件として問題にしてもよかったのですが、もうそろそろ不器用なことはやめようと本気で思ったわけです。
もちろん後に起業したのは他にも要因がありますが、この時の思索の結果も要素としては少なからずありました。
それはそんな上司をどうこうしようと思っても、それにはかなりのエネルギーが要るということと、現状の環境ではかなりの時間がかかってしまうということです。
僕は末端の従業員でしたし、相手は一応支店のトップです。
周りを説得しようと思っても相手のほうが長いキャリアの中で押さえている有力者もたくさんいるでしょうし、企業が僕を守るかその人を守るかということになれば、普通に考えて圧倒的に相手に分があるという感じになります。
それをひっくり返すにはマスコミを使うか訴訟を起こすくらいしかありませんが、そうなったらそうなったで僕は会社から危険因子として睨まれます。
自分の思う仕事のあり方を実現させるほうが簡単で実りも大きい
いずれにしても息苦しいことには変わりなく、かつ、そんな嫌な相手に人生の時間を消費するのもバカらしいということを考えました。
もちろん耐えるのも嫌ですし、かと言って真っ向から勝負するのもその先にある結果を見た場合には割に合わないという感じのことを思いました。
仮に知恵を絞ってその上司を叩き潰す事ができるくらいに戦略設計や実行に長けているのであれば、そんな無駄なことに頭と時間を使っていないで、自分の思う仕事のあり方を実現させるほうが簡単で実りも大きい、そんなことを思いました。
経験と活字によって花開いた
そんなことを考えることが出来たのも、労働組合の一件の経験によるフィードバックがあったことや、それまでにたくさん読み込んだ本のおかげだと思っています。
もちろん十代の時に経験したバイト先での思い出なんかも要因となっています。
物事を解決する場合、方法論はたくさんあります。どのような視点から観るかによってやることも変わってくれば、結果も大きく違ってきます。
そうした思考の材料や新しい見方の発見には広い意味でのデータの収集・経験値が欠かせません。
情報集め・経験値稼ぎとして周りの意見を単なるデータとして収集するのは構いませんが、それに翻弄される必要はありません。
考える時に努力したり力んだりすると逆効果ですが、新しい発想をする場合には手前に大量のデータが必要にはなります。
それが実際の経験なのか活字なのかはバラバラにはなりますが、それぞれのデータを大量に持っておくほうがより良い答えが出てきます。
誰にも相談せずに徹底的に一人で思索
そして、周りに扇動されずに、ひとまずは誰にも相談せずに徹底的に己の中で思索をしてみることです。
でないと、周りに反応して動いているだけになります。声を上げることしかできない「不器用であることに気付いていない人」になってしまうという感じです。
確かに子供の頃は親や先生に「訴えかける」ということくらいしかできません。しかしその成功法則に縛られていては、様々な可能性が潰れてしまいます。
その成功法則に縛られ、「これさえやっておけばいいんだ」と言った感じで「声を上げること」という方法論しか見えず、他の方法や思考の仕方の模索という可能性すら排除してしまっているという意味で、そうした人たちが最も不器用だと思っています。
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