父への評価と仕事や資産

よく父との仲や父への評価と仕事運や金運は大きく関わっているというようなことが言われます(なお、お父さんがいない人は、対象は父性の象徴になるというだけです)。

確かに過去を振り返ってみたり、今現在でも周りを見渡すと「不本意なフリーターのような状態や引きこもりニートになっている人(主に男性)」はたいていそのお父さんを嫌っています。

もちろんそのお父さんには嫌われる要素があるのでしょう。嫌う要素があるのだから仕方がありません。ということで、その対象を好きにならなくてはならないというわけではありません。

ただやはり、そうなると社会における勤め先の長や、営業先で決定権を持つ人等々に、自分の父への思いを投影してしまいます。

ちょっとでも自分が自分の父を嫌う要素が出てきた時に、感情が大きく反応してしまい、うまくいきません。

それが進むと、そうした反応自体を避けるようになります。

つまり、経済社会を中心とした「外の社会」と大きく関わらなくなるということです。

外の社会と言っても上下関係やピラミッドのような構造がない社会であれば溶け込むことができます。

経済社会と家庭や地域という社会は、属性の異なる空間です。

母や「家庭」の方に意識が向くと、仕事や資産の構築はあまりうまくいかない

特に仕事や資産自体は、その人の尊さを決めるものではありません。

ただ、どうしても母や「家庭」の方に意識が向くと、仕事や資産の構築はあまりうまくいきませんし、最低限すら確保できないという場合も出てきます。

知人のご兄弟くらいの人で、50代フリーター男性かつ、その方のお母さんの年金をあてにされている人がいます。「お母さんと一緒に暮らせればいいんだ」とはいっても、お母さんはいずれ亡くなられますし、その年金もいずれ無くなります。

そんなことでは成り立たないということは一応理性ではわかっているはずですが、社会に溶け込むことができないというような感じになっています。

これは極端に考えると、資本主義の歪みや戦争などの爪痕を贖うイエス・キリストのような感じにも見えます。

GDPを上げるために無理に核家族化を進めてモーレツに働かせたり、脳筋体育会系思想で押し付けられた恐怖をモチベーションとするやり方、それらによって作られた「男性像、父像」が、威張り散らしたり偉そうにしたりする人を量産し、時に飲んだくれを生み出し、「それを嫌う息子」を生み出し、経済社会から断絶されて高齢の母と共に家庭に閉じこもって家庭に気を向けていれば良いというだけになって、最終的には母も亡くなり、独りになり、孤独死していくというような構造にも見えるからです。

まあただ、本来仕事や報酬というものは誰かの役に立つこと、誰かの役に立った分のお礼のようなものです。

誰かの役に立つことに関して、「無理にやらされている」という感覚が強ければ強いほど、仕事をするのが嫌になります。

さらに、自分もたいがい仕事ができない割に、偉そうで威張り散らして怒鳴るような人にやらされているとなると、もっと嫌になります。

ただ、それはそれで正しいことです。

嫌に決まっています。

問題は、その象徴たる父への評価やそれに伴う妄想、それをクリアするための様々な方法論を見えなくしているもの等々ではないかと思っています。

僕の友だちで、お父さんを嫌っていながら社会で活躍している人たちはたいてい、「友だちみんなで乗り越えた」というような感じになっています。

また、父を嫌うという側面で考えると、僕も十代の頃の父の事業破綻等々でふんだんに嫌う要素がありますが、17歳くらいで「本当に100%父が悪いのだろうか?」ということを疑問に思い、その後就職活動期あたりで完全に「一時的に追いつかなかったが、それまでは生活を支えていた」という部分を正当に評価することで、ある出来事とある出来事、人格の部分と部分を分離して評価するということができましたし、感情と論理を分割するということもできました。

相談先を間違えると判断を誤ってしまう

男社会は主に経済社会であり、女社会は主にその外にあります。

なので相談先を間違えると、判断を間違ってしまいます。

個人的な感想ですが、父や父性の象徴のような人を嫌うあまり、何でも母に相談するということをしている人、特に経済社会のあり方を母に相談するということをしている人は、経済社会で弱いような印象があります。

会社を経営しているとか、そこそこの役職で働いているお母さんならまだしも、結婚後はパートくらいしかしたことがない人に相談しても、経済社会の細かい部分しか見えないのは当然です。

経済社会の外である家庭等の視点から見た経済社会への印象を伝える程度になってしまいます。

勤め先が経営難で「何人かのパートの人がシフトを減らされた」ということに対して、「働いている人の生活のことを考えていない」というような感想を述べる程度だったりもします。

しかし感情面で考えれば、経営側も本当はそんなことはしたくないというのが本当のところです。

そういう経営側の気持ちを考えたことがありません。

そうしたものは、まさに父への評価とつながっています。

本当は、様々な経営改善で働く人にももっと良い環境を与えたかったが追いつかなかった。

というような感じと、「あれを払えこれを払え」と資金面で追い詰められつつ、勤め先では「残業禁止」等々が発令されていてどうしようもなくなっているお父さんがの様子を想像してみましょう。

端的には「限界を超えている」というような感じです。

しかし、家庭面から考えると「家庭環境を変えるというのは困る」という程度の感想しかありません。

なので、経済社会の面で「パート主婦の考え」を基本としてしまっては、もしお父さんが威張り散らしてしまう理由、怒鳴り散らしてしまう理由は「個人の力量の限界を超えている」というところにあるというところが見えなくなったりしてしまいます。

人格の悪い部分ばかりが発露するくらいにまで、お父さんの限界を超えさせた理由は、「義両親との同居は嫌だ」「車は7人乗がいい」「この立地の新築」等々を当たり前かのように押し付けたお母さんかもしれないというところが見えません。

「そうでなければ男じゃない」という脅迫をしていたのかもしれないという点が見えません。

(もちろん逆のパターンもあります。様々な「当たり前」の感覚でお母さんの限界を超えさせたという場合も想定できます)

さて、数十年単位で見ると経済社会は不確定要素がたくさんあります。

それどころか数年単位ですら不安定です。

全体で見れば金融危機等々の様々な「ショック」や様々な次世代の機器やインフラ、近年では都市封鎖、企業単位で見れば不正やリコールへの対応で「ボーナス無し」などもありえます。

そうなると個人の限界を超えてしまうことは容易に想定できます。

そういう部分をあまり考えずに、「怒鳴り散らしてしまうのが悪い」と判断するのは早急です。

何かに追い詰められなければ、怒鳴ることもなかったのかもしれないということを考えてみるべきです。

そういう追い詰められているお父さんへの愚痴をお母さんが子どもに言っているケースもあります。

そうした時、自分が子供の立場ならどう反応すべきか?

「お父さんのことを『情けない』と言うなら、お父さん役とお母さん役を代わってみたら?男女平等社会なんじゃないの?」

無理な要求が歪みを生み出す

経済社会においても、個人がその環境で獲得できる量を超えて無理にかき集めようとするからこそ、不正行為も押し売りもパワハラも起こってしまうわけです。

例えば、20万円あれば十分であるものを30万円要求すると、10万円分無理をすることになります。無理をしているので、いつかは破綻します。

自然な需要としては20万円であるところを、30万円分売上ようとすると、10万円分の不正やパワハラが起こるわけです。

つまり、20万円しか人の役に立たないことを金銭の獲得ベースで30万円要求すると、何かしらの歪みが生じるということです。

また一方で、家庭レベルの要求額においても「誰かの都合」で無駄に跳ね上がっていたりもします。

3人家族が7人乗りの車を買うなどその典型ではないかと思います。また、自分の親等々が既に持っている不動産を再利用すればさほど資金は必要ではない中、核家族化させて住宅を購入させたり、就職だ、進学だと一人暮らしをさせて賃貸物件に住まそうとします。

ただ、企業単位ではそれが最も合理的であり、国家単位で考えればその方がGDPも上がり、税収も上がります。

そうした消費をしてもいいですが、「誰かの都合による過剰な必要性の演出」である面は否めませんし、それが人を追い詰める要因になるということは頭の片隅に置いておかなければなりません。

そうした演出が悪いということではありません。それはそれでその人達の収益最大化のための合理性を追求した結果です。

父への評価と仕事へのイメージ

という感じにはなりますが、「そんな無理をしていた父を尊敬しましょう」というようなことではありません(もちろん尊敬できるなら尊敬するに越したことはありません)。

「お母さんにも父に無理をさせていた一因があるのではないか?」とか、「国家的都合や資本主義経済自体にも要因があるなぁ」とか、一応頭で構造を理解すると、多少なりと情動は落ち着くだろうというような感じです。

根本をたどると、仕事へのイメージが問題です。

嫌なことを耐え忍ぶというようなイメージですね。

しかし、本来は「人の役に立つこと」が仕事です。

「人の役に立つこと」で、かつ、自分が得意でやりたい仕事であれば、耐え忍ぶというような要素はありません。

そこに、「安定」とか「過剰な必要量」とか、「期限的な焦り」を求めると、「嫌なことを耐え忍ぶ」の方に行ってしまいがちです。

ということで、本来は先に「嫌なことを耐え忍ぶ」の方に行かなくて良いように配備して気持ちを楽にすればいいのではないかと思います。

金槌を持てばすべてが釘に見える

また、一方でそんな「父への評価」からくる経済社会への恐怖のようなもの、組織の長への態度を固定化しない方法もあります。この方法には、「自分が得意でやりたい仕事を見つけなければならないんだ」というような脅迫もありません。

「金槌を持てばすべてが釘に見える」

ということです。

世のお父さんは、十中八九多少なりと追い詰められています。自尊人はズタボロです。

自分の父への嫌悪感はひとまずさておいて、経済社会にいる人達に「すごいですね」と声をかけてみましょう。本当のことなのですから。

「社会環境が変化する中、長年にわたってそれだけのお金を家に渡せるということはすごいですね」というようなことです。

「どうやって切り抜けたんですか?」というような質問もいいですね。

するとたいていは、普段威張り散らしている人、怒鳴りまくっている人でも、「まあ、いっぱい飲めや」と奢ってくれるようになります。

そうした事ができるようになると、まさに「金槌」を手に入れたことになります。

威張り散らす人、怒鳴り散らす人が「釘」に見えます。

釘を見つけるのが楽しくなります。

Category:miscellaneous notes 雑記

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