爆笑して起きてしまうゆかいな夢

僕は今なお夢に爆笑して起きてしまうことがあります。

月に一度以上はそんな感じで起きてしまうのですが、ゆかいな夢で爆笑し、愉快な気分で目が覚めます。

つい先日は、養子のうさぎやインコのピーコちゃん、ガチョウの雪雄や鹿の王などを筆頭とした仲の良い動物や鳥、以前に保護したアシナガバチや逃した米びつ虫をはじめ、ひっくり返っているところを起こした虫たち、宝ヶ池の鯉たちなどの魚類、家に現れたヤモリなどの爬虫類、それに家にいる植物たちなど、ありとあらゆる生き物たちに全身を覆われ、愛情表現的に舐められたり体を這われたりしながらくすぐられ、「ちょっちょっちょっちょっ」などと言いながら、そのくすぐったさに爆笑して起きてしまいました。

笑い声とともに起きた後も、しばらくは腹が震えていて、笑いをこらえてガクガクなっている時の感じでした。もちろん気分は楽しく愉快そのものでした。

仮に制御できない夢が続くとすれば

そういえば17歳位の頃、友人の一人が交通事故で意識不明のまま1ヶ月位目を覚まさなかった事がありました。

その時、「一応外見的には意識不明とされていたとしても、仮に制御できない無意識の世界だけで埋め尽くされるとすればどうなるのだろう?」ということを考えてしまいました。

いわば、新しい情報が入ったりしないまま、記憶の中の情報だけが巡り巡るのみであるとするならば、どんな感じなのだろうかという予想です。

その時、急に恐ろしくなったりしました。

「制御できない悪夢のような夢が続くとすれば…」という感じです。

自分が保持している恐怖や疚しさなどが全て反映されるとすれば、そして、新しい情報が入ってこなかったり自分が働きかけたりすることができずに、その状態になった後、情報の材料が全ての固定化されるとすれば、もしかするとずっと続く夢のような世界は相当絶望的なのではないかと思ったしだいです。

希望的観測でいえば、夢の中であっても解決できるものは解決できるということもありうるとは思いましたが、それでもそれまでの間の睡眠中の夢のパターンを思い返すと、悪夢を見ることもたまにあったので、自分の都合の良いようにだけ事が運ぶとはなかなか思えませんでした。

その時だけのことですが、「なるべく正々堂々と生きよう」と思ったりしました。何をもって正々堂々なのかはわかりませんでしたが、まあいわゆる良心に反するようなことは「我が事のために避けよう」と思ったという感じです。当時高校生ですからその程度です。

夢から考える「戒め」

まあそんなことを含めて考えてみると、「戒め」のようなものが説かれている裏にあるもの、その本来の意味や目的として、制御できない無意識を汚すなということなのかもしれないということを思ったりします。

ロジックで考えていくと、正当か不当かということなどは、どの目線・立場で語るかによって変わってきたりします。

ただ、いくら難しい倫理的な問題を最高峰の思考能力で論理的に考えたところで、その理論で本能を騙したり覆すことはできません。もちろん部分的には納得度合いによって痛みが多少マシになったりすることはあるでしょう。

倫理・道徳という目線での「戒め」の論理的な完全性を考えても、絶対的な証明をするということはできないというかナンセンスです。

まあそういうこととは別口で社会的なルールなどは思考上で考えていけばいいと思いますが、自然界の長い歴史の中で培われた本能が持つ部分は、論理の世界としての社会が許したとしても、体感領域として「許さない」という部分を持っているのかもしれません。

そうであれば、非言語領域になるので、この場合は「論理として許さない」ということではなく、苦痛として不快感をもたらすという感じになるでしょう。

そして記憶は基本的に消すことができません。物理的に脳に損傷を与えれば消えることもあるのかもしれませんが、ここでは、基本的に経験したすべてのことを覚えているということにしましょう。

「忘れることができる」と思っていても、それは単に意識でつかめるレベルまで思い出せない、つまり記憶を統合することができないとか、「あまり重要なことではない」と判断されたから思い出せないというだけで、一応経験したことのすべてを覚えているという感じです。

そうなると、別に社会的には問題がないと思ってやったことでも、本能部分としては「ダメですよ」と反応している部分もたくさん記憶されていってしまうということになります。

そして無意識領域でそうした材料が揃っていくと、夢を見ているときなど「制御できないような状況」になった時、苦痛でいっぱいになってしまうという可能性があります。

論証としては中途半端なものであっても、そうした危険性を回避し、制すためにあるのが「戒め」という感じになるのでしょう。

他を媒介せずとも

だから別に「戒めを守っているから」という理由で他人に評価されて喜ぶとか、何かの信仰を実践している自己満足だとかそうしたことを考えなくても、この心に映るものがきれいになる、つまり汚れが落ちるのだから、他を媒介せずともそれだけでメリットのあることになります。

不殺生でいえば、全ての生き物と仲間であるという意識があるかどうかというところを他人に証明しようとか、それで褒められようとか、自己承認的にうぬぼれようとか、そうしたことを理由に不殺生戒を守るというのではないという感じです。

そうした印象を元に、この心に映るものや景色をどうしたいのか、ということをこの心のためにという目線でだけ考えれば、答えは自ずと見えてきます。

もちろん睡眠中の夢は無意識の世界ですが、起きている時であっても表層的な意識とは裏腹に無意識に縛られています。

今までがどうであろうと、ちょっとしたことで意識が変化すれば、これから無意識に蓄積されていく情報はキレイなものになっていきます。

あらゆるものが敵だと思えば、ずっと緊張が走りますが、友達だと思えば緊張が解けていきます。

自分は虫よりも強いため、虫よりも偉いと思うのは勝手ですが、その傲りが結果的に心を汚していきます。そしてその汚れは無意識を埋め尽くします。社会的に非難されるとかされないとか、そうした領域の問題ではありません。

その意識の状態がそのまま、苦痛のタネになるという感じです。

「なぜ、苦痛のタネになると言えるのか?そうは言えないのではないか?」と思って論駁したとしても、体感領域なのでロジックは通用しません。

いくら自分がいかに優れているかを力説したところで、相手に好きなふりをしてもらうことはできても、心底好きになってはもらえないのと同じです。

まあ本当に心の底から関係がないと思えるのであれば、それはそれで大丈夫なのかもしれません。

ただ、眠っているときの夢のように一切の論理が通用しない世界に入った時、そんな思い込みもどこまで通用するのかはわかりません。

ひとまず僕は、睡眠中の夢の中にいる時でも「爆笑して起きてしまうレベル」のゆかいな世界の中にいます(年寄りじみた笑い)。

それは誰がどう評価しようがそれだけで完結しています。

そんな夢を見ることを目的としているわけでも何でも無いですが、意図せずともそんなオマケまでついてくるという感じです。

Category:miscellaneous notes 雑記

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