無条件の忠誠の誓い

車の免許を取るために自動車教習所に行った時のことです。

「はいはい」と返事すると、「『はい』は一回でええんや!」と中尾彬調の教官に叱られたことがあります。なぜ叱られたのはよくわかりません。

だれにでも同じことを言っているのならいいですが、おそらく教習生などにしか言っていないでしょう。相手がそこそこの大人ならきっと言っていないはずです。

「教えてもらいに来てるんやろ?」と彼は言いました。

すいませんが、あなたは僕からお金をもらっています。

脳筋教官が求める忠誠

なぜお金を払ってまで、忠誠まで誓わねばならないのかよくわかりません。「根性を叩き直す道場」のようなところに自発的に来たのならわかりますが、運転免許を取りに来ただけです。なぜ、師匠面ができるのかがわかりませんでした。

「『はい』は一回でええんや!」と言う言葉が彼の脳筋感を如実に語っています。

あれほどに嫌な時間はなかなかありませんでした。そしてもっとひどい教官もいましたが、今回はふれないでおきましょう。

体育会系思想が反映された「後輩」という言葉

そういう体育会系思想は、いち早く捨てたほうがいいでしょう。

先日、歳が一周りほど上の経営者の講演を聞いた時に、その人は「君たち後輩からも教わることがある」という言葉を使っていました。

すいませんが、こちらがいつどのタイミングで後輩になったのかわかりません。その人が母校の先輩というわけでもなし、どこからそんな言葉が出てくるのでしょうか。

仮に後輩だとすれば、それが何なのでしょうか?

後輩だと思うのは勝手ですが、君の焼きそばパンは買いに行きませんよ。

「挑戦したいからです」への挑戦状

さて、その人のことはどうでもいいですが、最近、スポーツトレーナー的な人とお話する機会がありました。

話しているうちに、「いろんなことに挑戦していきたい!」といった事を言い出しました。

「自作チラシにも挑戦して、栄養学的な観点からの食事提供にも挑戦して…」と、事あるごとに「挑戦」という言葉を使っていました。

そして、結びとして「いろんなことに挑戦していきたい!」と、語ったというような経緯です。

普通なら、前向きに挑戦している姿だけで「カッコイイ」と思われるのでしょうが、話し相手がどういったタイプかも推測することなくそんなことを言ってはいけません。

すかさず「どうしてでしょうか?」と、聞いてみました。

「挑戦したいからです」

そう答えが返ってきました。

「ですから、挑戦したいと思うにはその手前に何かの衝動があるはずです。どういったタイプの衝動から、その考え、思いが出てくるのでしょうか。奥底の動機を聞かせてください」

「ずっと挑戦し続けてきたからです」

「挑戦して、それによっていつも某かの感情を得ているはずです。次の挑戦への衝動が起こる時、その思いが起こる原因となる衝動はいったいどういったもので、衝動の矛先、方法論としての『挑戦』への意欲はいったいどういった動機によるものでしょうか」

すると彼は、「えーっと、えーっと」と呟きながら、グラスを持ってどこかに行ってしまいました。

自分が無条件の忠誠を誓っている相手は、権力者だけでなく、もしかしたら本能的衝動や、記憶による「癖」なのかもしれませんね。

無条件の忠誠の誓い 167

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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