何かをしたり人とやり取りをする上で、活字の世界の比重と感情の世界の比重というバランスがあることは案外見落とされています。
いくら感情的になったところで、活字の世界である学校のテストで良い点をとれるわけはありませんし、逆に恋仲になろうと思った時に活字ベースで事を進めることもできません。
たまに思考の世界と感情の世界をごっちゃにしてはいけないというようなことについて触れる時がありますが、もう少し具体的に考えて思考の世界の中でも活字の世界があるということについて触れてみたいと思います。
その行動は活字をベースとしているのか、感情をベースとしているのか
勤め人が「会社に行く」ということひとつ取ってみても、結局は労働契約や就業規則などによる権利義務関係、そして給与という数字の動きなど活字がベースとなって人の行動が決定しているという要素があります。
もちろん、今勤めている会社で勉強して、何かの目的を達成したいというような感情の面も含まれています。
逆に「会社に行くのがめんどくさい」という感情を持っている場合もあります。しかしその人はそんなことを思いながらもだいたい会社に向かっています。
しかし、仮に感情が活字の世界を上回った時、会社に行かないという選択をする場合もあります。
また、それとは反対に人によっては、給与が出なくても、労働契約自体がなくてもその場所に行くというケースもあります。休みの日でも会社に顔を出しているような場合です。居心地が良いという感情がその行動の動機になっているという感じです。
そんな感じで概ね活字の世界と感情の世界が入り混じりながら人は行動を取っています。
活字の世界である種強制的な要素となっている部分もあれば、感情の影響で義務の範囲を超えて行動を起こすこともあります。
しかし、圧倒的に活字の比重が高い世界もあります。逆に感情の比重が高い世界もあります。世界というよりも空間のリアリティという表現のほうが良いかもしれません。
活字の世界の人を動かしたければ活字に比重を置く
法学部にいたような人であればある程度理解されているはずですが、法律の世界は情状酌量というような感情ベースの側面もありつつも、ほぼ活字の世界であり、公務員に至っては活字によって動きが細かく決められていたりします。
以前、労働基準監督署に行った時に、隣のブースで感情的に叫んでいる40代くらいの女性がいました。話をこっそり聞くところによると労働者側です。
「感情で訴えかければ分かってくれる、助けてくれる」ということが幼少期からの成功法則なのかはわかりませんが、ひとまず職員に感情的に話をしているようでした。
しかし公務員においては、相談であれば相談で終わらせることもできます。
ところが一方で、必要な要件を満たした請求や届け出があった場合はそれを受理し、特定の行動を起こす義務が定められている様な事柄があります。
感情として「かわいそうだから」という理由で動いてくれる人が現れるのを期待するよりも、活字の世界から物事を見つつ、そうした人たちの業務の空間を見極めて、動かざるをえない状況にしていくほうが理に適っています。
「私はこの法律のこの条文を根拠に通報をしに来ています。受理しないというのならば、その根拠を明示した文書を作成してください」
活字の世界に生きているものとしては、こうした要求は少し痛々しく感じます。
感情で「あなたはかわいそうな人を助けたいと思わないのか?」と叫ぶよりも効果的です。
活字の世界ならば活字の世界で意思表示をするべきです。
自分の力では無理なのであれば、法律の専門家に相談すると良いでしょう。「共感してくれる友人」に相談するよりも合理的です。
しかしながら、結局目的は何なのか、結局どう落ち着かせたいのかということを明確にしておいた方がやるべき行動も見えてきます。
ただの感情の世界であるのならば、活字の世界にぶつけるのはあまり効率がよくありませんし、活字の世界の枠組みの中でできる範囲の目標があるのならばそれに向けて活字ベースの証拠を集めるなどの行動を起こせばよいでしょう。
もちろん活字の世界だからと言って、活字だけで全てが完結するわけではありません。
筆記試験などであれば、完全に活字の世界なので、その空間で成果を出すしかありませんが、相手が人であるのならば何とかなる場合もあります。相手は活字の世界にリアリティを持っていたとしても、100%活字だけの世界で生きているいうわけではないからです。
感情の世界に活字は通用しない
活字の世界と同じように、感情の世界においては、活字が意味をなさない場合がよくあります。
いくら「あなたのことを一生愛します」という念書をとったところで、感情の約束はすることができません。
「愛しているようなフリ」という行動の約束を無理やりすることはできますが、心からの愛など活字でどうこうできるものではないはずです。
年収1000万円というような客観的な数字も活字の世界です。
その活字で、完全な形では感情を買うことはできません。
もし感情を買うことができたと思っているのなら、それは感情ではなく活字の世界で相手の活字の世界を買えたというだけです。
感情の世界の事柄を感情でやり取りしない限り、活字の絡まない感情は手に入れることはできません。
金の切れ目が縁の切れ目といった感じで、仮に何かで失敗し、年収が100万円になった時に捨てられてしまうとすれば、それは本当の感情の世界に生きていたことにはなりません。
たいていは複合的
そうは言っても、社会における大体の事柄は、活字と感情が複合的に入り混じっています。しかしながら、その比重のバランスは結構偏っている場合もあります。
経済活動一つとっても、経理は活字が中心ですが、営業は感情の比重の高い職種です。営業の世界は感情の比重が高いという側面がありながらも、活字の世界を全く無視することはできません。
業法などで制限されている行為などがありますし、いくら成約に至ってもあとで業法違反で吊るし上げられる可能性もあり、結局契約は無効になることもあるからです。
しかし、活字の世界である「資格」をいくら保有していようが、その資格だけで仕事が獲得できるとは限りません。例え税理士さんなどであっても、顧問先としての見込み客に「この人は何だか嫌だ」と思われてしまってはお仕事はもらえなくなります。
そのような感じで、扱うべき空間としての活字の世界と感情の世界を取り前違えると、結局行動が無駄になってしまうことがあります。
それはもったいない話です。
といっても業界によっては、上手く渡り歩かないと、事がうまく運ばない様な業界もあります。
聞いた話ですが、本来は企業間の契約に関しては書類上で契約の証拠を残しておくことが普通ですが、建設業などでは未だに口約束が多いそうです。
で、書類上の契約をお願いすると、「面倒なやつだ」と思われて仕事が入ってこないということがよくあるそうです。
しかしながら、結局代金を踏み倒されたりしてしまうというケースもよくあるそうです。
感情によって仕事の獲得が左右されるという一方で、本来活字の世界が入り込むべき所に活字が入らないと、こうした時に困ったことになってしまいます。
また、ブラック企業であれば、証拠書類を改ざんしているケースもよくあります。タイムカードを打たせつつ、まだ残業させるという場合が代表例でしょう。
で、何かの拍子に未払賃金を請求したくなっても、そのタイムカードを覆すような証拠がないと難しくなってしまいます。
よく駅の乗り降りの時間や駅駐輪場の入出庫時間などが利用されますが、そのようなものがない場合は、自前で予め用意するに越したことはありません。
いくら感情で訴えかけられても、活字の世界で生きている人としては何かをしてあげたくても活字上何もしてあげられなくなるからです。
そうした感じで、代金を踏み倒したり、残業代を払わなかったりする人たちは、感情の世界から見れば、相手の尊厳を踏みにじり、その人が生きた時間、起こした行動を無かったものとしています。
それは感情的には苦しいはずです。
しかし、感情の世界の話であっても、その分を取り返すには活字の世界で事を起こす必要があります。
確かに生きた時間を否定された人を見て、よほどの悪人でない限り誰しもが憐れむでしょう。
しかし、それは感情の世界でありながら、誰かに感情に訴えかけても、支払いに関する事柄、つまり活字の世界のことは活字の世界のルールで行動を起こさないと何ともならないのが社会です。
「感情によって訴えかける」ことを成功法則にしてきた
ほとんどの人は、成人するまでの間に「感情によって訴えかける」という方法を成功法則にしてきています。
まあ幼少期や義務教育期間において、それはある程度仕方ないことです。
それはそれで確かに一つの正解ではあります。
感情の世界を理屈や理論でねじ伏せることが出来ないと言うのは真実です。嫌いなものを好きになれと言われて好きなフリはできても心底好きになることはできないからです。
人に物を売ろうという時、相手の都合や感情についてお構いなしに合理性を説いたところで物はなかなか売れません。
しかし感情によって訴えかけるということが通用する場面と通用しない場面があります。
通用しないというよりも、通用させてあげたくても活字の世界の制度上不可能であるというような場面です。
「今すぐアメリカに行かなければならない」
と思っても、パスポートがなければ渡航させてもらえません。
究極的には渡航の自由があると叫ぶことができるかもしれませんが、その叫びを持って明日アメリカに入国することは現実的に不可能です。
成長過程で「感情によって訴えかける」ことを成功法則にしてきていたとして、何か意見を通すときには感情で訴えかけるということをしてもそれが通用しない空間も当然にあり得るのです。
相手の枠組みを超える
本当に笑ってしまうような話ですが、大企業等々においては、「利用規約上」とか「弊社の扱いでは」という自分たちの内側の取り決めで話を進めようとする場合もあります。
古くからあるような企業の場合は結構抜け目なく網羅されている傾向にありますが、まだまだ甘い企業もたくさんありつつ、交渉の場で自分たちの会社内でのルールを強制してこようとする場合があります。
しかし、例えば法律などの枠組みに移動すれば、その人達の枠組を超えて話が進むようになります。
かなり前のことになりますが、「保証期間は1年です」で触れたように、通信業者とメーカーの間の取り決めを持って、僕を説得してきたことがありました。
しかしながら、そうした取り決めよりも効力を持つのが、商法でした。商法526条のおかげ、そして家族のおかげで助かりました。
まあほとんどはそうした利用規約的なもので人を説得しつつ、あまりにまずい場合は、相手の要求を飲むという感じでしょう。その方がトータルで安く済みますからね。
活字の世界が全てではありません。
しかし、活字の世界に働きかけるには活字の世界の法則に基づいたほうが効率的であるという感じです。
「熱い心を持って冷たい頭で考えろ」
法律を勉強している時に、法学部の先生からそんなことをよく言われました。
人は感情的になると、頭があまり働きません。
逆に冷静に頭を使っていると感情はあまり起こらないものです。
「結果的に何がしたいのか?」
それを念頭に置いて、後は冷たい頭で考える事が理想的です。
少しレベルは下がりますが、これは先日の「見ることを意図してから絵を描く」の世界です。
感情に任せるまま騒ぐよりも、どのような結果を求めるのかを明確にさえすれば、後は無意識や周りの仲間たちがその結果に向かって動き出してくれます。
感情を持つのがいけないのではありません。
感情は自然に起こりますし、我慢することはよくありません。むしろ違和感や怒りをしっかりと確認して、そのエネルギーをどの方向に向かわせるのかということ、どのような結果を望むのかを確認すると良いでしょう。
そして意図をしっかり持つことで必要なものが見えてきます。その結果に対して活字の世界での何かが必要なのであれば、その必要なものが何かということが見えてきます。
ただ、特定の結果を意図する時、相手を傷つけることを意図するのではなく、それが相手を一時的に苦しめることになったとしても、自分の行動が今後の自分にとって、今後の相手にとって、今後の社会にとって、どう影響を与えるのかを検討するべきです。
対象にもよりますが、人間社会の枠組みを超えて、自然界のすべての生き物に対してどう影響を与えるのかを考えてみてもいいでしょう。
活字を超える意図
最後に、どうせ意図を持つなら活字の領域を超える意図を持つ方が良いという様なことについて触れて終わります。
世の中には「結婚がしたい」という意図を持つ人がいます。
僕としてはそうした人の気持ちがよくわかりませんが、結婚とはある種活字の世界を含んでいます。
民法における婚姻の効果という活字の世界が中心となり、家計においては数字的な世界が展開したりもします。
むしろほとんどが当人たちの二人の間柄の話ではなく、二人の間柄を周りの人たちがどう捉えるかという領域になっています。それは民法の領域も含まれていますし、社会的な評価というものなども含まれています。現実的には活字の世界も無視するわけにはいかない部分もありますので、ある程度は複合的に考えるべきではあります。
しかし、一方で男女が共に愛し合うということは、活字の領域ではなく感情の領域であるはずです。
ということは、そうした状態の方こそ意図すべき対象です。
そして、一方的に「結婚がしたい」というのは、単なる自己都合です。
それはそれで一つの要素として扱いながら、様々な要素を統合して意図を持つほうがより良く現実は展開します。
「お互いが愛し合い、お互いに尊敬し、一緒にいることで私は幸せになり、相手も幸せになる。そして二人が幸せであることで、自分の周りの人たちも幸せになる。そういう人と私は出会い、愛し合う」の方が理に適っているという感じです。結局は自己都合なので、一方的な自己都合を含んでも構いませんが、相手や周りを包括し抽象的な意図にした方がより良い感情を体感することができるはずです。
そしてもしそれができたのなら、自分と相手などという狭い範囲に限らず、社会のすべて、そして生き物の全てとそうした状態になればさらに良いのは言うまでもありません。
ならば最初から、最高の状態を意図しておけばよいのです。
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