死すべき魂!

認識に関する最も有用な業績は、ことによると魂の不滅への信仰が放棄されたということかもしれない。現在人類は待つことが許されている。現在人類は、かつてそうしなければならなかったように、あわてふためいて、半分しか吟味されていない思想でのどをつまらせる必要はもうない。 曙光 501 前半

そんなに生きたいとも思わず、また生きたくないとも思わない、という状態が本体あるべき姿です。

何故かニヒリズムが再びよく閲覧されているようです。そういえば書いてから一年以上経過しているということを忘れていました。

そういえば、私事ながら気力がかなり回復してきました。

掌の熱さですぐにわかります。

さて、「死すべき魂!」ということで、ニヒリズム的なことと合わせて「アイツ」のパートナーについてご紹介していきます。

ニヒリストのニヒリズムアピール

さて、久しぶりにニヒリズムについて少しだけ触れておきましょう。

カッコをつけるためにニヒリストを気取っていたり、また、人に相手にされたいがためにニヒリズムを人にアピールしてはいけません。自称ニヒリストをはじめ、「メンヘラ」などといいながらそうした感じに酔うのはやめましょう。

その状態は、まだ「虚無」にすら到達していません。なぜならば、カッコを付けることや人との関係性に価値を見出し、それを渇望しているからです。

もしくは、「大丈夫?」と構って欲しくて虚無的な雰囲気を出していたり、単に人に恐怖しているためそれを避けるために虚無感を出してガードしているというような格好になっています。

まずはフラットな状態になりましょう。

そして全てにがっかりしてください。その感情に到達するのは必然です。

二次的な怒りなど

さてさて、がっかり感が限界に達すると、その先があります。

しかしながら気をつけていないと、二次波及としての怒りや欲がやってきます。

先日少しそれに襲われそうになりました。

こいつはかなり手強いです。

自分に関係した人が第三者に影響され、
その影響が自分にやってくる

というのも、自分に関係した人が第三者に影響されて、その影響が自分にやってくるというものです。

いわば拡大自我みたいな感じですが、直接接する人に影響されるという構造を持ちながらも、「直接接する人が接してきた第三者」からの影響が自分にやってきそうになるというものもです。

が、大丈夫です。

アイツはアイツとして、そのままの名称でいきますが、これを「コイツ」と名付けることにします。

我が事ならば一瞬で流れていくのですが、あやうく影響されそうになりました。「他人の疝気を頭痛に病む」というやつです。

諸法無我として捉えれば「我が事」ということすら本来はありません。しかし間接にやってくるので、思わず脇が甘くなってしまいそうになります。

まるで手品師のトリックのように間接的な出来事に注目させて、その間に、というような罠でした。

アイツにはコイツというパートナーがいるようです。

死すべき魂! 曙光 501

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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