抽象的で曖昧な言葉ほどものすごい力を発揮したりします。
言葉が抽象的である場合、その分だけ包括する概念の範囲が広く、解釈可能性もたくさんあるということになります。
ただ、具体性からは逆行することになるので意味を捉えにくくなるということになり、その分だけイライラするということもありますが、やはり曖昧な言葉は凄まじい効力を持っていたりします(多義性や曖昧さを嫌う無機質さ)。
「明確に示さねばならない」と思えば思うほど、現実の展開はうまくいかなくなったりもします。
日常で言えば、「私はモテるのだ」と心底思っておけばその自信が本当のモテをもたらすのに、「じゃあ証拠を見せてみろ」などと言う人達に抵抗して証拠を探そうとするたびに自信がなくなり、結果的に自信によってもたらされていた「モテる可能性」がどんどん無くなっていくというような感じです。
つい先日「蓋然性とあいまいさ」というものについて触れてみましたが、曖昧であればあるほど答えが知りたいと言う場合には逆に混乱するものの、聖典とされるようなものはだいたい口語表現であり、かなり曖昧です。それは具体的な概念に縛られる可能性があるということを見越した上でのあえての記述であり、その凄さには圧巻されたりもします。「思考の罠」で触れたような自我による負のスパイラルをあえて遠ざけるというような記述になっています。
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そんな中、中学生の卒業アルバムの寄せ書きについて思い出したりすることがあります。かなり前にも触れたことがありましたが、そこに書かれていた言葉は、
「ずっとそのままのあなたでいてください」
というようなものでした。
同級生の女の子が書いた言葉でしたが、もしかするとその子は深い意味なく書いたのかもしれません。
しかしながらその曖昧さ、抽象度の高さがいかに凄まじいかということを改めて思ったりすることがあります。
「どの僕なのだ?」
というところが曖昧です。
「僕のどういうところを指しているのだ?」
と言う感じです。
もちろん、哲学的に論理的に考えると「そのままでいれるはずがないだろう」ということになりますが、それが一種の思考の罠です。確かに正論ですが、その正論は心の成長にあまり貢献はしてくれません。
先の言葉、「ずっとそのままのあなたでいてください」という言葉のすごいところは、何かあるたびにその言葉の持つ意味が大きく変化し、たいていは何か良い方向に導いてくれるという点です。
そして同時に、その場においては、自分という人格が無条件に受け入れられ、一種の承認と評価をなされているという安心感をももたらすという面もあります。十代の自分にとっては、その効用はすごいものでした。
その嬉しいような体感を伴った瞬間が一種の基準となり、事あるごとにその言葉が頭に浮かんできたりするようになりました。
小学校の途中で転校してきた子ですが、小学校から一緒に過ごしてきたということになり、修学旅行のペンギンの思い出も、母の日に先生に反論した僕も彼女は見ているわけです。
もちろん、同級生を半殺しにした僕も、カバンに鉄板を入れて登校していた僕も含まれています。
少女漫画を貸してもらって頬を赤らめていた僕も、色気づいて髪を伸ばしていた僕も知っているわけです。
「どの僕を指しているのだろう?」
それがかなり曖昧で、曖昧であるからこそ様々な局面でその言葉が力になりました。
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