既にあるものと心

無限にある既に形成された状態、そうした混沌と心について触れていきましょう。もちろん、ここで触れることは通常の思考では意味不明のように見える可能性もあります。そして、あえて証明の証明のようなことはパスしていきます。

まずこの空間は、いまただ単にあるものがあるという状態です。

それはこの瞬間に確定しています。同時に、時間というものもあくまで自我が「再生」の如く捉えているだけになります。

この心はただの認識する働きです。受け取るだけです。

どの視点を通じて捉えるのかというところで、通常、自我というものを通しているように見えます。

ただ、この瞬間に重なり合った全状態のうちの一つがあるというだけになっています。

「空」というと、あってないようなものを指しますが、この心は「ある」しか認識できません。「ない」と感じるときは「ある」を前提としてそれがないと自我が判断しているというだけです。

そして無限の全状態は、常にあります。常に空間はそうした無限の状態の混沌です。しかしながら一般に無限といっても、自我の上ではどこかしら具体的な制限があり、その中で数量的な無限があるというような印象を受けてしまいます。そこで、「ない」という概念が生まれます。しかし全状態が無限にあるのだから、「ない」というものは成り立ちません。

自我というものがもたらす時間軸、それが、因果の展開の仕方を順を追って形成されていくものとして扱います。

そうなると古典力学のような因果律しか無いということになります。そうなると、以前の状態が次の状態を決定するという単純な構造の内側になり、自由意志というものもないということになります。

この自由意志というものは曲者です。基本的に「インスピレーションが降りてきた」と言おうが、それは既に知っていることの内側であり、自由に起こったことではなく、普段意識しなかっただけということにもなります。そうであるとも証明できませんが、そうでないとも証明できません。そうなると、やはりどうあがいても自由意志というものは怪しくなります。

ただ、そうしたものは自我の内側での話です。

思考する機能、時間を形成するもの、そうしたものである自我が、制限から独立したい、安心したいという騒ぎのもとで求めるのが自由意志です。

情報が他者から与えられているものばかりであり、自分はその情報の寄せ集めでしか無いのであれば自分には自由はないのか?自由がないのであれば、自分は何なのか?歯車なのか?というような不安ですね。

自我の領域から離れてしまうこと、その時に心が受け取るものは、自由意志と呼ばれるものに似ています。自由意志を求める気持ちを満たすものではありますが、自由意志を超えています。

自由意志があるのかないのか、という部分においては自由意志があるという属性を含んでいるものの、自由意志があるという概念とはまた異なったものとなっています。

自我の影響と心

自我は思考する機能であり判断機能であり、時間をもたらすものです。そして根底は「不安」です。生存本能です。

「思考の上で納得したい」ということをいつも思っています。

なぜ納得したいのか?

それは不安だからです。

「確証が欲しい」と思っています。

それはなぜか?

安心材料が欲しいからです。

しかしながら不安というものは、思考、判断、時間という概念から生まれます。

なので、自作自演、騒ぐだけという格好になっています。

しかしながら一方で、この心が受け取る世界は、全状態が既に形成され、ある状態になっています。自我の上でどう見えるかは重なり合った可能性のうちのどちらの状態で見えているかというだけです。

イメージしにくい場合はシュレーディンガーの猫をイメージすると印象がつかみやすいかもしれません。

心は受け取るだけです。

混沌とした全状態をどのように受け取るかというだけです。

自我の屁理屈

自我は、こうしたことを理解できれば、というか「理解しないと、どうにもならない」と思っています。

そして、自我の視点が変われば、自我が変われば、見える状態も変わるのだろうということを思います。

それはその通りですが、そのために考えなければならない、理解しなければならないという、自我らしい騒ぎを起こしてきます。

そうではなくて、「自我をバイパスする」ということです。

思考、判断、時間を超えるというと超人らしい感じがしてしまいますが、それほど大層なことではありません。

前を見ていたものが後ろに振り返るだけ程度のことです。

そうなると「意味がわからない」ということになります。

当然です。

思考の上では意味がわかりません。

ですから思考の範疇ではないのです。

自我と距離を置く

もう少しつかみやすい例としては、ヴィパッサナーがあります。

自分の行為行動、思考を全て確認してラベリングするだけというものになります。

勝手に起こる思考すらも、「妄想」とラベリングします。確認するだけで判断はしません。

確認するだけで判断はしない、ということは、思考は勝手に起こっていますが、思考をしているわけではない状態になっていきます。

少しわかりにくいですが、思考しているのは他人事になります。

「私は思考や判断をしていない」という感じになっています。

もちろん、勝手に思考が起こったり記憶が蘇ったりもします。

しかしそれは勝手に起こっていることであって、「私」が思考しているのではないという感じになっていきます。

すると屁理屈の範疇にある苦の錯覚領域から、全状態の方に心の位置が寄っていきます。

自我の範疇にいても、その視点が明るく、自我の影響が少なければ、全状態の中から明るい状態を受け取ることになります。

世の「ありがとう連呼系」の人たちをはじめとして、その手の宗教空間はこの程度です。まだ明るいのでマシですが、完全ではありません。

五感で感じているものだけが世界

五感で感じているものだけが今の心が受け取る世界を構成しています。

「そんなことはないだろう」

ということを思ったりもしますが、それは思考が混じっているからです。

「世界情勢が…」

というのは、思考領域の情報の世界です。

それとこれが混じるからこそ、変な緊張、変な不安、無駄なものが混じるだけ、ということになります。

「これが解消されれば…」

という不安が増すだけです。

では、全く見ず知らずの問題が、昨日まで起こっていて今日解決したということもあるとして、それを意識しないのはなぜでしょうか。

その緊張と緩和は起こりませんでした。

なぜなら情報として意識にないからです。

普通に考えると、今、自分が知らないだけの社会的な問題は、おそらく無数にあります。

しかし、そんなものはありません。

問題とそれに伴う緊張、苦というものは、単に全状態の中から自我が作り上げたものです。その視点を選んでいるだけですね。

自我の影響がなくなればなくなるほど、安らぎの中に入っていきます。

例えば、「この会社のあの役職である自分」から解放された空間に行くと、多少なりと気が楽になりますね。

「この子の親であり、あの人の配偶者であり、あの人の子である自分」という属性が影響しない空間では、多少なりと解放されたりもします。

あの問題もこの問題もない状態を体感してみてください。

Category:philosophy 哲学

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