断末魔のあがき

断末魔のあがきということで、「悲惨な出来事とあがき」について触れていきましょう。世の中では突発的な被害というものもありながら、悲惨そうに見える人もだいたいは「なるべくしてなった」という感じがしてしまう時があります。

悲惨な人だけでなく、うまくいっている人も、後に振り返り全体の流れを俯瞰してみると、やはり「なるべくしてなった」という感じに見えてしまいます。

悲惨なこと続きのように見えて「かわいそうだなぁ」と思ってみて、少し手を差し伸べてみたとしても、ある時急に調子に乗り出し始めたりします。こうした時、「だから友達がおらず、病むんだろうなぁ」と思ってしまいます。

憐れみ乞いをしている人も、なんだかんだで「この生活を維持したい」というような執著があったりもします。「生活はギリギリです」と言いながらギャンブルをしている人のように、ウシジマくんに胸ぐらを掴まれ、問答無用で殴られるような人たちです。

断末魔のあがきとも言うべき常套句

断末魔のあがきとも言うべきか、そうした人の常套句は「何が悪いんだ!」「仕方がない!」です。結果は既に出ているので簡単なことなのですが、何が悪いのかを自分で考えてみなければなりません。

ちなみにですが、そうした人は「世話をされたい側」であり、その居直り具合とは裏腹に被虐を好む傾向にあります。その居直りのような心的複合体を破壊されたいという思いを持っていることもあるので、利他性を考える上でも「相手に合わせる」とか「相手の要求通りにする」というのが正解というわけではありません。

表面的な要求に対する充足ではなく、奥底にある「要求の原動力となっている衝動」の沈下を求めている場合があるということです。

表面的な要求の裏側に、鬱屈した精神やその原因となっているうじうじした考え癖の方を破壊して欲しいというようなことを潜ませているといった感じです。

意識状態に応じて現実が展開する

さて、「意識状態に応じて現実が展開する」という感覚は十代の頃に気づいたのですが、その意識状態をどう変えるのかというところが問題となり、深いところでの納得のためには哲学的な証明が必要だったという感じでしばらくの間は迷いの連続でした。

最初に気づいたのは、高校生くらいのときでしょうか。

熱り立つというか、やたらと何かに敵愾心を持ったり、うまくいって調子に乗るような時に限って、それを是正するかのごとく、トラブルが起こったりしていました。

簡単なものでは想像にたやすく、道端で絡まれたり職質にあったりという感じです。

あと、直接関係あるのかはわかりませんが、そうした時は自分の髪が長かったような気がします(毛の長さに比例して、トラブルに巻き込まれやすかった、というような感じです)。

そんな感じで、十代から二十代半ばくらいまでは、「意識状態の乱れを是正するためのかのような出来事」が結構な確率で起こっていたので、事あるごとに襟を正し、その後は特に起こらなくなりました。

という感じなので、「襟を正すとすぐに吉報がやってくる」で触れていたように、今も「カスを切るほど良いことが起こる」ということを肝に銘じ、常に基本姿勢としています。

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