懐疑家を安心させるために

「私は、私のなすことが全くわからない!私は、私のなすべきことが全くわからない!」― 君は正しい。しかし次のことは疑うな。君はなされる!いかなる瞬間にも!人類はいつでも能動態と受動態とを取り違えてきた。それは人類の永遠の、文法に関する誤りである。 曙光 120

懐疑家とは、もちろん何でもかんでも懐疑的に見て懐疑的に思考し懐疑的に判断する人のことです。懐疑とは「疑うこと」になりますが、「懐の中では疑っている」という感じにもなるでしょう。

有名な懐疑論者は、サーリプッタとモッガラーナがかつて弟子入りしていた六師外道サンジャヤ・ベーラッティプッタなどですが、古代ギリシャでもエリスのピュロンなどもいますし、その後の西洋哲学においてもデカルトの懐疑論やヒュームの懐疑論などたくさんの懐疑主義の流れがありました。

そのような感じで大昔からたくさんの懐疑家、懐疑主義者がイたわけですが、引用では、まさに核心のような事を言っています。

「能動態と受動態を取り違えている」

つまり、「私は、『なす』」と「私は、『なされる』」の違いです。

換言すれば、やっていると思っていることもやらされているだけで、その反応を受け取っているだけ、というようなことです。

この「受け取っているだけ」というところがポイントです。

心は「認識する働き」

心は「認識する働き」です(心とは何か)。

一般に言われる「心」は意識のことを指すようですが、その意識は、自分で作り上げたものでも、自分がオリジナルでゼロから生み出したものではありません。

何かの情報を得て、それを組み合わせたのが「自分だ」と思っていても、「組み合わせ方」すら組み込まれたものです。

ということは、意識は自分の中にしかありませんが、自分ではありません。

小さい時から、今に至るまでの「記憶」を思い返してみると面白いかもしれません。

友人であっても、今の職業であっても、今の自分の癖であっても、見渡す限りの「自分の物」であっても、ただ受け取っただけということがわかるはずです。

そして自分に「必要なもの」はすべて今目の前にあるはずです。

必ず要るということで、無ければ死んでいますから「必要」といっても、普段自分の意識が快楽などのために「必要だ!」と思っているレベルでは考えないでください。

それは必要ではありません。必ず要ると書いて必要です。世間で言われる「必要」は「あったほうがいいもの」です。

どうして「頑張ろう」と思いましたか?

「自分が頑張って手に入れたんだ!」

と言っても、ではどうして頑張ろうと思いましたか?

その

はどこからやって来たのでしょうか?

頑張ろうという気持ちすらオリジナルではありません。

よくよく分解すると「頑張ろうと思った経緯」も「頑張ろうと思った動機」も「頑張った経験」も、その結果手に入れたものも、すべて受け取っただけでゼロから生み出したものではありません。

自動的に意図が生まれ、その実現プロセスで「頑張って手に入れた」ということが起こっただけです。

ほら、映画を観てるようでしょ?

懐疑家を安心させるために 曙光 120


「頑張ろう」という動機をはじめ、様々な行為の手前にある動機自体はどこからやってきたのでしょうか?

それらは「自由意志」を考える上で重要なヒントとなります。

自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ