特にうつ状態の時に限ったことではなく、いつでも思考は静まり整っていることが理想的です。
感情は即時的でそれ自体が現在の答えのような性質を持っていますが、当然のものではありながら結局は何かの反応にしか過ぎません。
生理的な恐怖のようなものなら、いわば「身体の都合」ということにもなりますが、思考上で起こる恐怖や不安など、所詮思考上で起こっている実体のない虚像ということになります。
しかしながら虚像と同化しているような状態にあっては、反応にしか過ぎないものの「今の事実」には変わりないため、しんどくなったりしてしまいます。
「やる気がわかない」といった時によく語られる、気力とは結局エネルギーのような感じではあるのですが、分離を前提としたものではなく、いつでもどこでも「それで満ち溢れているようなもの」です。
自然体でいれば自然と通いが良くなる
感覚で言えば、気力など「自分の内側」に保持されているようなものではなく、いつでもどこでも自分と通い合っているという感じになります。その循環と言うか「通い」が悪い状態になっていることが気力不足の原因の一つです。
自然体でいれば自然と通いが良くなります。そして不自然な状態にあってはその通いが悪くなります。ただそれだけのことです。分離を前提とするからこそ不自然となり、不自然となるからこそやる気が出ないという感じになります。
思考によって不自然さが起こる
そしてそうした不自然さは全て思考が発端で起こっています。
そしてやる気を出したいと思っても、そうした思考が巡るだけでやる気など出ません。むしろ焦燥感に苛まれてより悪循環に陥る可能性のほうが圧倒的に高いという感じになります。
そこで今回は、仮止め的な分野にはなりますが、思考を整えることと自然体でいることについて触れていきます。
一切の思考を止めること
最も理想的なのは一切の思考を止めることです。
と言っても脳の活動が完全に止まれば死んでしまいます。ということで思考といっても、いわば顕在意識と言われているような意識と無意識で言うところの意識の方を止めるという感じです。
ただ、ヨガにハマった人が大好きなサマタ瞑想などがいい例ですが、止めている間はいいものの、止めるのをやめた途端に元に戻るのでは、多少の効用があっても根本問題は残ったままになります。
本来は錯覚であると気付いてしまうのがいいですが、思考を止めたりして整え、思考を鎮静させるのが手っ取り早いという感じになります。
しかし無理に「止めよう」とするのもまた、無理が生じた不自然な思考です。アイツこと自我の巧妙な手口の一つです。
「思考を止めなければならない」という思考の騒ぎでいっぱいになって不自然になるという一種の罠です。
ということで、思考を整えることを概観した後、比較的簡単でわかりやすい思考の整え方について、いくつかの方法をご紹介していきます。
空っぽか満タンか
思考を整えることは、論理上で論理的な矛盾がなく思考が整理されていることという感じと少し違います。
ある種思考が完全に整った状態とは、コップの中が単一のもので埋め尽くされているような状態です。
コップの中に水が半分あれば、少しの動きで中身が乱れながら動き回ったりします。
つまり「気にはなっているが確証は持てない」というような、中途半端な状態であればあるほど、現象によく反応して思考がすぐに乱れ、その反応による感情に苛まれることになるという感じです。
ところが、コップの中に水などが一切入っていない状態ならば、コップがいくら動いても中身が無いので何も乱れたりはしません。
逆に水が満タンに入っていて、蓋がしてあるような状態であっても同様に、いくら動いても中身が乱れることはないという感じになります。
これは、後の仏教の宗派で言えば、前者は禅宗系、後者は密教系という感じです。
「あまり何も考えていない人」の意識をあまり乱すことができないように、逆に「そこそこ考えで埋め尽くされている人」の意識もあまり乱すことはできないという感じです。
普段に置き換えてみると、「何を言われても右から左」という人を傷つけることは難しく、逆にカルト信者であれば教義に沿った世界観があるので、日常の悩みはあまりないと言うような感じに近いでしょう。
といった感じで少し概観してみましたが、それでは思考の乱れを整える方法について検討してみましょう。
思考の乱れは体にも表れる
ずるいことをするとその疚しさが元で緊張になり、実際の動作に表れるということは日常でもよくよく実感することができます。疚しさというものが発端でなくとも、緊張して不自然な状態になっている時は体はうまく動いてくれません。
思考の乱れは隠すことができないという感じです。字を書く時にすら表れるというのは誰にでも経験があることだと思います。
日常、思考の乱れに気づくのに最も手っ取り早いのが、呼吸を観察してみることです。
思考の乱れは必ず呼吸に表れます。
そして、呼吸は意識でコントロールできる部分です。
なので、呼吸を利用して意識の乱れをコントロールすることも可能です。
呼吸を利用する
呼吸を観察すると、意識が乱れているのか静まっているのかすぐにわかります。不自然な時は呼吸が不自然になっているはずです。まさに自分の内側だと思っている体と外側だと思っている外界との循環という感じで、氣の通いの状態というのが理解しやすいはずです。
他のことに意識が向いて呼吸の状態に意識がいっていないという状態の時がよくありますが、そうした「意識が向いていないだけ」という感じでもなく、呼吸が気にならない感覚で「リズムも整い、力みもない状態」になっているのなら、思考も整っているはずです。
そのような形で、力み無く息を自然に吐き切るということと、力み無く息を自然に吸い込むということができるレベルにまで、感覚を頼りに呼吸を整えてみると、やがて思考も静まり整ってきます。
最初はぶれても良いので、不自然に息が止まっていたり、力んで吸い込んだりすること無く整ってくるまで、呼吸に意識を向けてみるというのも思考を整える手っ取り早い方法の一つです。
我が為すという意識を手放す
その時に「我が為す」という感覚でいるとあまり上手くいきません。なぜならそれは分離を前提とし、不自然だからです。
「自然と一体になる」というのも近いですが、本質的には少し異なっています。なぜならそれは「自分」と「その他の外界としての自然」が合体するというような感覚であり、分離を前提としているからです。
これについては後述しましょう。
大量の情報で埋め尽くす
さて、次に荒技ですが「大量の情報で埋め尽くす」という方法もあります。
思考を整えるのに逆に大量の情報を得るというのは矛盾のように感じますが、これは「何か少数の事柄に気がとられ、執著きつくなっている状態」を大量の情報で希釈するという方法です。
ある「悩みのようなもの」を思考を止めたりすることで沈下させるのはいいですが、意識の中の情報を削っていくと「重要視している事柄」だけが残り、思考が暴走することがあります。
「あっちこっちに思考が飛んで乱れる」ということもありますが、あっちこっちが静まったと思ったら逆に「何かに固執して思考が乱れる」ということも起こりうるという感じです。
古い情報ばかりが循環し、整理されまとまることもなくただ感情の反応が起こるだけで、否が応でもそれを繰り返してしまうという現象が起こります。
「気力を取り戻すために休んでいる」といった状態のはずが、より一層塞ぎ込んでしまうという感じで、部屋に引きこもると新しい情報が全然入ってこないので、逆に思考が乱れてくるという感じです。
そんな時は、大量の情報を得ることで執著を希釈するということが効いたりします。もちろん各々の情報を覚える必要はありません。ただ流れるように大量の情報に触れるという感じで十分です。
いわゆる「外界」と交流する
部屋の中の空気でも水でも滞ると淀んだり腐ったりしてきます。もちろん呼吸も同様ですが、何かを溜め込むとそれが内側で滞り、不自然な状態になってきたりします。
呼吸と同じように「外に向かってエネルギーを出すことで、逆に外からエネルギーが入ってくる」という感覚で、いわゆる「外界」と交流すると思考の乱れが静まってきます。
これは、エネルギーを出して、エネルギーを手に入れるというよりも「循環がうまくいく」と表現したほうが適切でしょう。
自然体でいること
さて、「我が為す」という感覚と自然体でいることについて触れていきます。
例えば山登りなんかでは、世間的、特に西洋的な感覚では「攻略した」とか「私が成し遂げた」というような感覚を持たれたりします。
しかしそれはまさに「私がやったのだ」という感覚です。「強い自分」を誇りに思いたくて的な感じです。
その感覚でいると不自然なので必ず疲れます。
また一方で「山に登らせていただいている」という感覚を持っている人もいます。先程の「私が成し遂げた系」よりはずいぶんマシですが、それも分離を前提とした不自然な思考です。
ということで、ひとまずは「自分」も「山」もデジタルデータで表現された情報の状態だと思ってみましょう。
山を登るという行為で、その関係性、つまり「全体的な情報の状態」が変化するだけという感じになります。
そう思うと、特に分離感はないはずです。自分と山を別物だと思っているからこそ分離の感覚が生じ、山を攻略してやったとか、山に登らせていただいたという感想が出てくるのです。
自然体でいるということは、こうした分離がない状態です。
「私が空気を吸っている」というのは分離的な感覚です。だから不自然になります。本来の自然の状態になれば本当に最適な形でただ現象が起きるのみとなるはずです。
自然体でいれば思考は自然と整う
ここで客観的に現象を観察してみましょう。
既に10キロの距離を歩いていて、目的地まであと2キロだと思ってたら、実は後10キロ先だったということに気付いた時と、最初から20キロの道のりだと知っていて、今10キロ地点にたどり着いたと確認した時の心境の違いです。
物理的な現象としては、10キロの道を歩いたということに変わりがないのに、心境は大きく異なります。もちろんペース配分が狂ったというような体的な都合もありますが、それ以上に前者の場合は気持ちが辟易するはずです。
もし、ただ歩くという意図だけがあり、一切の思考がなければ、そんな嫌な感情も起こりません。
しかし、日常はどうしても思考が登場したりしてしまいます。
今の瞬間だけに集中しようにも、「8時間働けば給料は1万円であり、あと40分耐えればバイトは終わる」とか「あと3日働けば休みになるので、あと3日の辛坊だ」といった感じです。
ただ歩いているということやただ働いているということだけ着目していれば、そうした思考から起こる煩いは起こりません。
また、それらを「プロセス」と考え終わりをずっと先に置くと大して気にもならなくなったりします。
「自然にあるがままでなければならない」ということを思考で行うことすら不自然です。それは「何かを信じること」自体が疑いを含んでいるのと同じように、思考をもって思考を止める、緊張をもって緊張を静めるといったおかしな構造になっています。
自然のままの姿が基本
本来は自然のままの姿が基本であるはずですが、自我意識がそれを邪魔しています。自然体でいれば思考は自然と整うのに、「自然体となるために」という条件と付けてくるという感じです。
それを脱却するには、最初は「思考で考えたこと」を発端としてもいいので、呼吸などを観察し整えていくというのが最もわかりやすい方法論になります。
しかしながら、「呼吸を整えること」が必須条件になっていてはその状態も「自然な状態ではない」というような構造にもなっています。
「呼吸をコントロールする」という我視点のコントロール自体が一種の不自然だということにはなりますが、それをきっかけとして自然体になっていくというのも一つの道としてあり得るというような感じです。
わかりやすいようでわかりにくくなってしまったかもしれませんが、ひとまずは呼吸に着目して乱れを発見し、呼吸を利用して整えてみましょう。
緑に風が吹き抜けるような、水が自然に流れるような体感を頼りに、気楽になる状態を発見していってみてはいかがでしょうか。
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