思考や感情というものは、ただの反応にしかすぎません。
ただの反応にしかすぎないものを、あれこれこねくり回そうとすると、また反応が起こるだけという感じになります。
しかしながら、ひとまず暗い思考のループなり、不快な感情なりを「何とかしたい」と思っているからこそ、それを弄くり回そうとするという構造は理解することができます。
反応をしないでおこうとしても、結局反応をしていないフリをするのがオチです。
本質的には、「どうするんだ?」という問いに対しては、「どうするとかではありません」というのが回答です。
「どうする?」というのは思考です。なぜどうにかしたいのかというと不快だからです。「苦」と表現してもよいでしょう。
思考を使って思考の領域を出ることはできません。厳密には限界まで達すれば端の方までは到達することはできます。
しかし思考の領域を出る、換言すれば自我の領域を出るということはありません。
「苦」には「私」がついています。
「私」がこうしたいのに、こうなりたいのに、できない、なれない、という構造です。
「私」があると、過去や未来がついて回ります。
では、私を含めた世界から、「私」を引いてみると何が残るでしょうか。
無なり死が想起されるかもしれませんが、それも思考の領域です。無という概念や死という概念を「私」が考えただけです。
私というのが変な感じなのであれば、自我や思考と置き換えて世界から引き算をしてみます。
「体感のようなもの」のみが残ります。
リアルタイムの「感覚のようなもの」だけが残るという感じです。
ここで、「自分がいない世界」を考えるというのは違いますね。
世界は自分がそれを捉えないと成立しません。
自分がいない客観的な世界というものは、自分の頭でイメージしたものです。つまり、思考の領域です。
過去の記憶から考えると、そのようなものになってしまいますが、そういうものが無くなると「この心が捉えるもの」は、わかりやすいもので言えば体感のようなものになります。
状態というものは「ある」しかありません。
「ない」というのは、「ある」という記憶を元に思考した印象、つまり一種の情報状態でしかありません。
つまり、「『ない』という感想」というものが「ある」という感じです。
それは、勝手に作られたものであり、作る以前にひとつの情報状態として「無限の中にあるものの中のひとつ」となります。
そういうわけで、すべての状態は、作るとか、形成されるというものではなく、無限の中に既に存在しているということになります。
それを選択しているようなものです。
その選択は、思考で行うものではありません。
思考で行ったように思えても、「思考で行ったかのように思う状態」を選択したという感じです。
「頑張って努力したから」
というのも、「頑張って努力したからパターンのストーリー」を選択しているというだけです。
してもいいのですが、結局は、「私」が不快で不安で、あれがこうなってくれたら、私は嬉しいという構造になっていて、そのために原因を探して対処をして、うまくいったという流れを繰り返しているだけです。
外界に対して働きかけをして、それを認知して安らぐという構造になっています。そのために感情を騒ぎ立て、思考を巡らせ、ということをやっているだけです。
さあ、自我は大暴れしているでしょう。
「どうでもいい」
で終わってしまうのをわざわざ避けています。
今すぐに安穏の中に入るのをわざわざ避けています。
不快な感情やそれを発生させる思考を何とかしよう、苦をなくそうとしているのに、実際はそれを作り出しているだけです。
「じゃあ何もしてはいけないのか?」
というのも思考ですね。
誰が言っていますか?
「私」ですね。
もし今までの全てがまったく意味がなく、すべての記憶なり何なり「私」というものをポイッと捨てた場合、どのような世界でも選ぶことができる、としてもなかなか頑なに私を捨てようとはしません。
「あの頑張りが無駄だったということか!」
「あの悲しみを乗り越えたのに、それはあんまりだ!」
「やっと苦労してここまで来たのに」
と等々「思考」が騒ぎます。
「思考」が騒ぐんですよ。
いやいや、頑張りとか、悲しみを乗り越えたとか、苦労とかそういうものの先に得たかったのは、「そこ」なのではないですか?
最高に素晴らしい世界が展開する、この上ない安らぎが延々と続く、ということなのに、なぜ過去の自分の業績にそれほどしがみつくのですか?
なぜそんなに記憶を大事にするのですか?
誰がしがみついていますか?
「私」ですね。
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「どうせあなたに私の苦しみはわからない」
一応きっと理解することはできますが、わかったところで何ですか?
「わかってもらった」と思って何がどう変化しますか?
どうなりたいですか?
苦を消滅させるということですね。その不快感なり、悲しみなり、辛い感情なりを和らげたいというようなものか、それを和らげるために苦を解消する方法を「知りたい」というようなことですね。
苦を消滅させる、和らげる方法として、「わかってもらいたい」と思考で導き出しましたね。
解消する方法を知って、解消したいという思考が起こりましたね。
まあそれはそれでよく起こることですが、本質的には茶番です。
してもいいですが、しなくてもいいんです。
「私」と「アイツ」は別のものですか?
もし異なるものを指しているのであれば、どのような基準で使い分けをしているのか教えていただきたいです🙏
同じ場合もあれば、別のものである場合もあります。
よほど特殊なものを除き、同一投稿中にそれらが入れ替わることは特にありませんが、明確に別のものであることを定義した方が良い場合はそのように記述している場合もあります。
例えば「六根のうちの意」と「認識する働きとしての心」という概念があったとして、「意」のみの場合と、「意と心」を包括した場合の区別がある場合があります。ただ、そうしたことを意図的に明示していない場合もあります。
単語、言葉は、文脈、背景によって変化します。
具体的に定義して固定化すると投稿ごとの隠喩や抽象的な表現が消えてしまうので、この場で「同じか、別のものか」ということを明示することは避けます。