幸福の効果

幸福の最初の効果は力の感情である。この力は、われわれ自身に対してであれ、他の人間に対してであれ、表象に対してであれ、想像されたものに対してであれ、自らを表明しようとする。自らを表明する最もありふれたやり方は、贈ること、嘲ること、破壊することである。― この三つはすべて、ひとつの根本的な衝動をともにしている。 曙光 356

さて、「幸福の効果」というような胡散臭いタイトルが増えてきました。

そしてニーチェお得意の「力の感情」というような言葉も出てきました。

しかしながら引用の通り「力の感情」結果として挙げられているものは、ロクなものではありません。

以前、質疑応答の「ずっと楽しいままではダメですか?」に近い項目ですが、「喜びすらも次の憂いの種になる」というわかりやすい例かもしれません。

感謝する」や「感謝を拒絶する」で少し触れましたが、新興宗教にありがちな、「幸せ」の方法論としての「アイツ騙しの感謝乱発」すらも、その行動によって、幾ばくかの「幸福感」を感じつつ、そういった力の感情が湧いているはずです。

そういった体感を得るとある種のエネルギーが湧いてきます。

しかし、最も幸福な状態というのは、「幸せだ!」と力んでいるときよりも、もっと穏やかな状態です。

エネルギーが湧くのは良いですが、その性質をわからぬまま単純に放置すると、そのエネルギーはどこかの方向へ逃げ口を探し出します。

このエネルギーを俗に言う「気」ということにしましょう。怪しい東洋医学をかじったような人のような怪しい用途でこの言葉を使う気はありませんが、ひとまず俗に言う「気」だと思っていただければ結構です。

エネルギーとしての気

よく解説されるように「元気」とは、元々の気の状態になっている、という事を指し、お祓いで祓われる「穢れ」は「気枯れ」とも言われます。まあ実際に印象としてはそんな感じです。

よく勘違いされるのですが、この「気」というものは、単なるエネルギーです。エネルギーが満ち溢れているのは良いのですが、ただ単に「エネルギーがある」というだけです。

それだけでも、無いよりは断然良いのですが、この気は意識の中の情報を乗せて外に吐き出されるか、内なる衝動に変わります。

そういうわけで「幸せだ!」で充填された「気」は、その人の意識に影響されて、その人の意識の中の衝動となります。

ということで、新興宗教にはまると、「もっと修行を!」とか「もっと布教を!」ということになります。

経済社会に洗脳されている人は、「もっと売上を!」というエネルギーになります。

さらに性根が腐っていると「部下が過労死しようが、もっと売上を!」ということになります。

ですから、気の強さがイコールで良いものというわけではありません。

気と、それに組み合わさる情報によって、吉とも凶とも出ることになります。

気の使い方が勝手にわかった

僕は俗に言う気功のようなものができます。

これも誰かに教わったとか何かで学んだわけではなくて、ある日突然できるようになりました。

それで、後で調べてみるとどうやら気功のようなものと同じようなことだったようです。これを生半可にやると気が減ってしまうそうですが、僕は集中だけで一気に充填することができます。

そういうわけで、遠隔歯軋り(遠隔歯軋りと慈しみ)ができます。

しかしながら突然できるようになった、といってもそれまでの何かたくさんの原因がその時に結ばれたということです。

しかし、こういった「気」を使って何か自分の利益になるようなことを、と思うのは煩悩の種になります。

そういった考えが起こること、それこそがアイツの手口であり、戦うべきはそういった考えです。

資格ビジネスに走るような人は、こういったことを少しできる程度でそれをビジネスにしようとしますが、そういったことはやめておいたほうが良いでしょう。

気の自体は別に摩訶不思議なことではありません。

ただ気をビジネスにしたりだとか、それがちょっとできるからと「選ばれた存在だ」と高慢になっているのが危ないということです。

相手の気を受け取る

今年に入ってからですが、京都駅で乗り換え途中に、目の前で大人同士の喧嘩が始まりました。

やや若者風の人が、新入社員系のスーツ姿の人に殴りかかりました。

会話の節々から読み取れるのは、どうやら肩がぶつかった、ぶつかっていないというようなことのようですが、原因はそれよりも若者風の人は一言詫びを入れたのに、スーツ姿の人は、その詫びを無視して去ろうとしたようです。

馬乗りになってボコボコ、という程に白熱した状況でしたが、すぐに周りの人に押さえられて、お互いが羽交い締めという形になりました。

そこで、若者風の人と一瞬目が合いました。

その瞬間に、一気に怒りを乗せた強い気がこちらに入ってきました。

同時に若者風の人は、息はあがっているものの、表情が少し穏やかになりました。

強い気を受け取った瞬間、怒りの情報だけすぐに流すことにしました。

するとやはり、僕は少し元気になりました。

少し変な話ですが、別に普通のことです。

まあこんなことをビジネスにしている人に引っかかることのないようにしてください。同時に、この手で宗教臭いことをしている人にも信頼を置かないでください。

幸福の効果 曙光 356

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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