欲を肯定し「欲を叶えやすいような世の中にしていこう」というタイプの人達がいます。しかし、欲は苦しみです。特に生命維持の領域を超えた欲はまさに無駄な欲であり、それを発端としてさまざまな煩いをもたらしてしまいます。
世の中では「そういう性質なのだから仕方がない。欲を叶えられるようにして欲しい、叶えやすい社会にして欲しい」という感じで物事を捉えているような人がいます。しかしながら、社会に何かを要求する前に、その欲自身と対峙してみてはいかがでしょうか?
すなわち、欲自体を盲目的に肯定するのではなく、第一前提として「それは苦しみをもたらすものであり、その衝動はどこからやってくるのか?」というようなことを観察してみてはいかがでしょうか、と言う感じです。
欲自体は盲目的に肯定するようなものではない
最もよくわかりやすのは、LGBの人たちでしょう。
「その旨を告白した」ということがなぜ評価対象になるのかがよくわかりません。何が評価されるのか、何が誇りなのかが不明です。そしてそれを愛だと自己陶酔していたりします。
それは愛ではなく性欲です。
愛であるならば、そこには慈悲のみが残るはずです。単に相手を尊重し慈しみ幸せを願うというのみになります。そうであるのならば一緒にいる必要すらありません。
欲の肯定と欲による作為が必須ということになっているようであれば、それは単なる性欲であり、愛ではありません。
「愛し合う」のみであれば社会は関係ない
「愛し合うことがいけないことなのか?」
という感じの正義感を社会にぶつけていますが、本来の「愛し合う」のみであれば社会は関係ありませんし、何も外に主張するようなことはないはずです。
性欲を愛にすり替えたりしているというのがその本質であり、己の愛欲や愛執を博愛主義の愛かのようにすり替えつつ、外に向かってそれを主張し、承認を求めているといった感じで、何重にもおかしな構造になっています。
特にその手の人がその手の人であること自体が問題ではありませんが、その手の人がその手の人であることによってその人達自身の中で煩いが増えてしまうというだけなのに、その煩いに対する怒りの矛先を他人に向けている、というのが本当のところでしょう。
何事もその動機が「自らが安心したい」という恐怖心であるならば、その具体的なものが欲であれ怒りであれ、煩悩の域を出ることはありません。
その域を出るもの、それは慈悲の中からしか生まれません。
どうせ持つなら、その上で正義感を持つと良いでしょう。
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