共感

他人を理解するために、すなわち、彼の感情をわれわれの内面で模像するために、われわれは実際しばしば、彼のしかじかの一定の感情の起因を尋ねて、たとえば、なぜ彼は悲しんでいるのか?と問う。― そうすると同じ起因にもとづいて自分でも悲しくなる。しかしそれよりもはるかに普通であるのは、そうしないで、感情が他人において及ぼしたり示したりする結果に従って、その感情をわれわれの内に引き起こすことである。 曙光 142

「他人に共感する」ということがよく推奨されていますが、相手を理解することと同調することは別物です。

普通はある人とある人が同じ空間にいると同調が起こり、意識が平均化されていきます。そして、「共感」することで群れによる安心が満たされます。

個人的にも、共感してもらうことについては一応ありがたいとは思いますが、それ以上はありません。共感されることを目的として自分の行動を制限する事になってはいけないのです。

胡散臭いコンサルタントたちの説法(?)も、昔は「共感」そして、共感では足りないから「感動」、そして感動では足りないから「感激」が必要だと、時代が進むにつれて、ただの言葉遊び的になっていっています。

悩みを話して聞いてもらう

特に人に共感してもらうことで安心を感じるのは女性です。だからこそ、不登校の人たちに対して慈善事業などを行っているような人たちは、「話を聞いてあげる」ということが最高の解決策だと思っています。

しかしながら、すべての人がそうだとは限りません。

シッダルタやサーリプッタが「悩みを聞いてもらった」というだけで満足したでしょうか?

世の中では友だちやコミュニティが必要で、悩みを誰かに相談するということ自体が解決策だと思っている人たちがたくさんいます。

群れること、話すことで、寂しいという気持ちの解消、感情の解放、人とのつながりを感じることの安心感、等々を謳い文句にしていますが、群れを欲する女性とは異なる生き物である「賢者予備軍」にはその手の解決策は通用しません。

確かに、人に話すことで、感情のエネルギー自体は解放されることがあります。しかし、そうした感情のエネルギーを生成する原因である思考面は解決することができません。

もちろんそれでいい人はそれでかまいません。

しかし全てのタイプの人に適応できるようなものではないのです。

共感を欲することが煩悩となる

人に共感できる能力、人に共感してもらってスッキリすること、そこまではいいですが、それをそれ以上に評価して、「共感」を欲しだしたとき、それが煩悩となります。

「共感してもらえない…」と嘆くのは馬鹿げています。

人の共感を自分の気力の基準としてはいけません。まずは自分が強気になることです。強気になることに他人の共感は必要ありません。

そして他人の共感を得られなくても、自分が間違っているということにはなりません。

民主主義と共感

民主主義を軸とした場合、大勢の人に共感されていることが正しいという風潮がありますが、本来、大勢の人に共感されていることが正しいということの根拠にはなりません。

しかしながら、商いでも選挙でもなんでもいいのですが、もし何かの目的があり、それを正しさの上で、思考上でうまくやろうとしてもだいたいコケます。

なぜなら、情動というものがあり、共感というものが人の行動を決定するからです。

だからこそ、その政策内容はどうあれ、夏祭りに来て握手に回っただけの人が選挙で勝つのです。

ということで、うまく生きたければ、正しさよりも人の共感を得るような「耳触りの良さ」を指針とすれば良いということになります。

同情と共感

共感 曙光 142

Category:曙光(ニーチェ) / 第二書

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