倫理と道徳が陥る罠

倫理と道徳が陥る罠ということで、倫理と道徳について触れていきます。徹底的に書いてもいいのですが、深く触れていったところであまり意味を成さないためふんわり書いていきます。

倫理とは、人が生きる上で、理と関係性の中での基準となる行動基準、いわば秩序としての行為の基準という感じです。単純には「人はどうあるべきか」というようなものということになるでしょう。また、道徳とは、結局ある「道」に関して、つまりある基準の上で「それがよし」とされているような指針という感じで、もう少しふわっとした概念です。倫理と道徳の違いとして、倫理は「自分はどう生きるか」という感じであり、道徳は「社会の中で人はどうあるべきか」というようなニュアンスを含んでいたりもします。そのように倫理は個人の内側で展開され、道徳は社会で語られるというような印象もありますが、世間ではごっちゃになっているのであまりそうした分類も意味をなしません。

倫理学の分野として、古代アテナイの時代から、真善美や愛とは何かということが考えつくされてきました。すなわち、「正しいものは何か?最高の善とは何か?調和の取れた美しさとは何か?真実の愛とは何か?」ということを必死で考えてきたわけです。

この裏にあるものは、アイツこと自我による「汎用性の高い方程式が欲しい」というような騒ぎがあります。何にでも通用するようなある「方程式」のようなもの把握し、何事に関してもそれを当てはめようとする意図があるという感じです。根本はもちろん生存本能としての恐怖心です。

例えば、「これ以上の議論の余地のない最高善とは何か?」ということを定めた上で、演繹で目の前の行為を決定したいと言うような感じです。「定式化していきたいという意図」という感じで捉えることができます。

つまり、「最高善」が決まっていて、目の前の選択肢において最高善の基準に従って判断し行為する、という構造を持ちたがるということです。

宗教と宗教哲学

宗教社会学者のマックス・ウェーバーなどは、宗教の定義として「行動様式」だという風に考えました。若干宗教を客観的に観察した上で、「ある思想・信条を持つことによってなされる行動の様式だ」という感じで捉えたということになるでしょう。

これは、人が死んだらどのように取扱い、どのような行為を為すか、ということの「行動の様式」を宗教だと考えたという感じです。つまり人が行う行為の様式が宗教だということになります。そして、その時の取り扱い方の基準、行為の前提になる考え方を宗教哲学という風に考えたりしました。

しかし、それがギリシャ哲学にしろ、西洋哲学にしろ東洋哲学にしろ、結局「これ以上の議論の余地のない最高の善」ということを発見することはできませんでした。善悪自体が相対概念であり、善であるということ判断し、支えるには何かが必要になってしまうからです。宗教においてはそれが信仰ということになっています。

結局世の各宗教を単純に考えてみると、何か上位概念があり、それが示す善悪基準に沿って過ごしていると心配がマシになるという程度だったりします。その構造として「その基準に沿えば死後に良いところに行ける」とか、そういった話が盛り込まれているという感じになっています。

結局形而上学的な領域においてあまり明確に検討もされないまま、「気持ちが楽になること」を証拠としてそれを正当化し、何かの基準を提示しているという感じになるでしょう。

「生きていく上での基準が欲しい」「行為を為す上での基準が欲しい」という騒ぎに対しての一つの提案という形にはなりますが、所詮それだけのものなのです。

実際「気持ちが楽になる」という効用がある点だけみれば、それでもある程度は良いのかもしれませんが、宗教団体においては、それと権威・権力を結びつけたり、利権構造を作っていたりもします。結局権力のために効用を利用していると考えるほうが妥当でしょう。

ということで、効用だけ見て「正しい」とするには危険です。

倫理上「考えたりしなくてよい、迷わなくてよい」という機能はもたらされるかもしれませんが、その効用と正当性をごっちゃにしてはいけないのです。

そうしたものは全て一つの解釈可能性くらいに捉えておくほうが無難です。

最高善の証明と倫理学

これは論理の上で、何かしら無理矢理に思い込もうとするような要素がなければ「最高の善」であるということは成り立たないという感じになりますし、何かによって成り立たせてもらわなければならないものは「相対的な最高」というものになれても絶対的な「最高」にはならないという感じになります。

無矛盾で論理的には正しくても、その正しさはその集合の外からしか示すことはできないという感じで捉えてもいいでしょう。だから独立して絶対性を帯びている最高善のようなものは示しえないという感じになってしまいます。

しかしそうした事は都合よく脇において、「こういう考え方を元に生きる上での指針を作ろう」という感じのことをやるのが、倫理や道徳というような領域です。唯一絶対の善を示しえないということを考えるという意味での倫理学ならいいですが、概念として示されているものを学ぶというレベルならば、所詮その程度だということです。あくまで学問は学問の領域だという感じです。

「善とは何か?」を適当に考える道徳

道徳の授業というと、善悪についてかなり曖昧に語られたりしています。倫理や道徳をある程度深くも考えたことのない人たちが教壇に立つのだからある意味仕方がありません。

こうした「善とは何か?」については古代ギリシャから延々と考えられてきましたが、西洋哲学分野で「かなり考えた人」といえばイマヌエル・カントあたりではないでしょうか?

ということで、ここで彼が考えたようなことについて改めて考えてみましょう。あえて思考の可能性については例を書かずに置いておきます。

どちらを選ぶ?

虫が猫に追われています。

虫が「命を助けてください」とお願いをしてきたとしましょう。

そして同時に猫に「今食べないと餓死してしまうので邪魔しないでください。私の命を助けてください」とお願いされた場合、何が最高の善なのでしょうか?

どうした判断が正しいのでしょうか?

「命を救うことは善である。命あるものの苦しみを取り除くのが善である」というのはいいですが、この場合どうすればいいのでしょうか?

どうやっても無理

また、次に不殺生戒でも触れていたことについて再考してみましょう(不殺生戒と人を殺してはいけない理由)。

「命あるものを殺さないこと」が善であり、「生き物を傷つけないこと」が善であるとしましょう。

しかし残念ながら、今生きているだけで、細菌は殺しまくっているのです。調理の際に加熱することも同様です。手を洗うことすら怪しくなってきます。

「細菌は生き物ではない」と判断するのは自分勝手です。何をもって生き物かということを勝手に決めて良いという感覚は、まさに奴隷制度の頃の「イエス・キリストを知らない、魂の霊性なき存在」という感覚と同じです。

差別と平等

さてもう一つ、倫理と道徳という分野なので、差別と平等について少し触れておきましょう。

「平等であるのならば、どうして教師と生徒という関係は平等ではないのか?」というようなことは中学生くらいならすぐに考えるはずですがいかがでしょうか?

「この部分は違いがあって欲しい、この部分は平等ということを教えなければ都合が悪い」という程度でしょう。

人種差別において「キリスト教徒ではないということは、『人』ではないから自由に扱って良い」と勝手に決めるのはおかしい、というのはいいですが、そうした自己都合の基準を同じように当てはめたりしているはずです。

というようなことを踏まえて道徳を語るくらいでないと、単なる妄言になってしまいます。

対象が人間社会に限定されている

倫理や道徳と言うと、理を踏まえた上での人との関係性の中の秩序や人としてのあり方、という感じで語られていたりしますが、どうして対象が人間社会に限定されているのでしょうか?

まあ倫理という言葉自体がその程度だということです。

まずは第一段階として、人と人とのかかわり合いの中での「人としてのあり方」ということを検討していくのはいいですが、倫理という分野など所詮その程度なのです。

平等の概念を持ち出す割に、人と虫との間など、人と人以外の存在との間には差別意識があります。

「人を喜ばせることは善である」という善の基準の上であれば、何をしてもよいのでしょうか?

人としてのあり方として「子供を喜ばせよう」と思うとしましょう。

子供が喜ぶのであれば、虫を自然界から連れ去ってカゴに閉じ込めてよいのでしょうか?

虫にも家族がいます。虫を家族から引き離して、不自然な環境で飼育し子供が楽しむことが善なのでしょうか?

人が外国に拉致されると大騒ぎする割に、人以外には同じようなことを平気でできる神経を持っているということになります。

ということで、所詮自己都合の平等や倫理観なのです。

最近知りましたが、そのような感覚、そのような倫理観のおかしさに触れている人として手塚治虫氏がいます。彼はヒューマニズムの人などと表現されていますが、全然そんなことはなく対象を「人に限定する」感じでは描かれていません。先日漫画を爆買いして読んでいて「現代人の中で初めて同じような感覚の人を見つけた」と思ったくらいです。それは「ミクロイドS」や「荒野の七ひき」などで表現されています。

善悪の領域を超える

倫理と道徳が陥る罠として、一つは「最高の善」を探し求めて、それを基準とし全てを演繹で解決しようとする姿勢であり、もうひとつはそれを自己都合で限定するというようなことになります。

これは、論理的な行き詰まりに到達した時に結局自分勝手な基準を適用するということに陥りやすいという感じです。

世の中で倫理や道徳などと言われているものをよくよく洞察してみると、どこかの部分で曖昧になっている部分があるはずです。

そして倫理や道徳は、人と人との間での「人のあり方」程度ではありながら、だからこそ人と人と関係性を示す「人間社会」の領域では、何かの指針となりうるという感じになります。

しかしだからといって、それが絶対性を持った理というわけではありません。基準がなければ、人と人との関係性がぐちゃぐちゃになってしまうという社会においての規範、つまり法などにおいてはある程度採用しても良いような分野になりますが、そうした倫理の分野は本来「生きる」ということについては何の回答も示さないのです。

「よりよい社会になれば良い」というのはいいですが、個人の感覚をもって個人的な面を脇において本気でそれだけを願っている人はいないでしょう。いたとすれば、それがその人の倫理基準という感じになっているだけで、拷問でもされれば意見はすぐにひっくり返るはずです。

そういうわけで、「最高の基準」を求めて最高の善とは何かとか悪とは何かということを捉えようとしても、それはあくまで人倫の分野においての解釈可能性くらいしか見つからず、「己の心」に関してはあまり意味をなさないということになります。

色々と考えてみるのはいいですが、結局「人との関係性の中でどうあるか?」という構造は、人との関係性の中で状態を決めてしまうことになります。

倫理や道徳など「客観的な世界が『実在』していて、自分はその中の一員なのだ」というところからスタートしています。

まずはそんな現実の捉え方が自体が歪んでいるということに気づくと良いでしょう。それに気づいた時、倫理や道徳で語られている善悪の領域を超えることになります。

ただありのままの現実を捉えることができた時、虚構の現実の中で検討していた全てが一気に崩れ去るということが起こるでしょう。


よくよく見渡してみるとニーチェの曙光シリーズでも「倫理」の名のつくものが結構ありました。ついでなので掲示しておきます。

Category:philosophy 哲学

「倫理と道徳が陥る罠」への2件のフィードバック

  1. 文読みました
    何故宗教の目的が人類のための行動様式に成り下がってしまったのか、宗教の始祖には多分に人類の為の行動様式は目的ではなく、あらゆる観点から鑑み思考察し人類がそうすべきであるという始祖の本懐を遂げる為の、手段としての行動様式が、まるでそれが目的かの様に伝えていたのではないかと考えています。
    何故行動様式が目的かの様に伝えられていたのか、それは私が思うに始祖の本懐が一般の奴等にはあまりに不愉快不可解でしかなくまた、一般の人々が努力する理由としては受け入れられない事を経験上かは解りませんが知っていたのだと思います。
    そして始祖の本懐を遂げるため一般の人々に日々努力する理由を見出させる為に行動様式などが提言されたのだと思います。
    京極夏彦が姑獲鳥の夏で、「宗教は神聖なる詭弁だ」と記していましたが私もその様に思います。
    始祖の本懐は自然状態である人間の重要性とその思考の浸透、そして人類が自然状態になる事であったと思っています。
    しかし本懐は伝わる事なく廃れ手段のはずの行動様式が人類の為の行動様式に成り下がった。弊害として差別が生じ戦争や殺戮、そして言語や近代科学の影響を受け一人歩きし、利潤目的逃避の拠り所になっていった。
    今の宗教は其れであると思います。また原始宗教から派生した宗教ではすでに始祖の本懐は廃れていると思われます

    私があなたのような感覚を持ち得ているかは解りませんが賛同、というか共感、できているように感じます

    1. コメントどうもありがとうございます。
      何事も直感といったものを含めて、本質的に「理解」をするためにはその人と同じレベルで物事が見渡せる必要があります。
      そうした理由から何事も直接的には伝えがたいということになるのでしょう。対機説法のように、相手の持つフレームに合わせて示していくのが理想的ですが、伝承的な文献であれば、どうした状況下における会話内容だったのかという前後文脈が省かれていたりするため、その部分は曖昧だったりもします。
      そのような細切れのような情報の中から抽出された「誰にでも理解しうるような形式的なもの」だけが共通認識として残りやすかったのでしょう。
      同様の視野に立つまでの間の道標として例えや方便といったような、向こう岸に渡るまでの間の筏、崖を登り切る前の梯子のようなものが、目的化されていったという感じになるでしょうか。
      ただ、思考を中心とすると思考の罠にハマりやすく、例えば「思考を止める」ということを思考で行うということは、論理的にも矛盾に近いものとなってしまったりします。だからこそ言語、特に文語で直接示しうるような感じではない、という形になります。
      そのような構造の中、抽象的に示されたものに対して単なる字義的な解釈をすると行動様式にのみ着眼してしまうという感じになるのではないでしょうか。
      そして、行動の中で何かしらの効用があれば、その枠組の中の理解に留まってしまうというのが、「本末転倒のおかしな構造」を支える要因となっているというふうに思います。

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