個人的な満足こそがすべて

「自己満足」という言葉がありますが、どうしてもその用法としては、社会性の欠如の指摘のような側面が含まれています。しかしながら、一応本質的には「個人的な満足こそがすべて」という感じになっています。

世の中では様々な「こうした方がいい」というようなアドバイスがあります。そしてもちろん相手には相手の都合、その領域にはその領域なりの都合があります。

しかしながら、たいていのそれらは「誰かが決めたルールに従うならば」という仮言命法的な要素が含まれています。

そしてそうした領域、そしてその領域でのルールや王道が常識的に扱われているのは、一種の合理性があるからこそという側面もありつつ、部分的には「そう思っている人の数や評価の度合いによって形成された雰囲気だけ」という感じにもなっています。

しかしその雰囲気が、個人的感情を刺激することがあります。

ただし、それは様々なものへの評価、重要度を他人に依存しているからという感じになっています。

絶対性は持ち得ない「主義的なもの」

世の中では、こうした方がいいと言われるようなものがたくさんあります。ただ、それをよくよく観察してみると、あくまで一種の主義の上に成り立っている仮説的なものばかりとなっています。それらは普遍的な理とはまた異なったものです。

最もわかりやすいのは資本主義の仕組みの中でのルールや、その中で「人に雇われるのであれば」というような前提の上にある「ベター」の要素です。

「英語ができる」とか「学歴は高いほうがいい」というものが最もわかりやすようなものになるでしょう。

そして、そうしたなんとなくの「ベター」が必要条件かのように捉えられて、個人的な満足から大きく乖離してしまうということが起こったりします。

一応アドバイスをくれる人たちは概ね悪気があって言っているわけではなく、また、一定の領域、ルールの上では正当性を持ちます。しかしながら、本来は絶対性がありません。

それが個人的満足とかけ離れている場合、普通は、反証して不採用とするということをしてしまいがちです。そして、一種の正当性があるため、反証は難しそうに思ってしまいます。が、別にそうしたことをする必要はありません。

なぜなら、個人的な満足を得るのに「相手の承認が必要である」ということが条件となってしまうからです。

社会の評価という曖昧なもの

さて、世の中ではなぜかスポーツに一定の評価がなされています。ちなみに個人的には「その人が個人的に楽しむのはどうぞご自由に」という程度しか評価をしていません。

そうしたものへの評価をよくよく洞察してみると、「野球好きの人が多い」ということから野球が評価対象になっているというような程度だったりすることが見えてきます。

客観的に見るとスポーツは「遊び的な面白さを高めるために誰かが決めたルール」に沿って遊んでいるだけです。そうした様を見るだけで面白いと思う人がどれだけいるかというところが評価に大きく影響を与えます。

極端な例ですが、例えば誰かが作った自作ゲームをプレイする人が世界に100人しかいなかったとしましょう。それで世界一位のスコアが出たといっても世間は評価をしません。

仮にコンピュータゲームではダメだとして、体の動きを取り入れたスポーツ的な遊びであっても評価は生まれません。

ということで、世のスポーツに関しても「ある程度のシェア率があると評価対象になる」という程度ということになります。

ここではスポーツを例に出しましたが、世の中で評価されているものの中にもこれと同じような構造を持ったものがたくさんあります。

そして、遊びとしてそれを選ぶということは問題がありませんが、無駄に社会的に評価されていると、個人的な経験からくる満足とは乖離し、また本質的な意味では社会においても役に立たないということが起こったりします。

世の中で非難の対象とならないようなものを中立的に評価する

こうした「よく考えると根拠に乏しいような社会的評価」は、それぞれの人のストレートな意図を振り回します。

一つの選択肢としての提案程度ならば良いですが、実質的な価値よりも無駄に評価をつけられているようなものは、人の思考や判断、思い描く意図を混乱させます。

しかし一方で、社会的な評価への否定の論証ということをすると、社会的には実りのない争いを生むことがありますし、個人的にも「相手の承認が必要」という条件化を生みます。

というようなことを回避するには、まず個人的に「世の中で非難の対象とならないようなもの」を中立的に評価するということが効きます。これは、思考をうまくまとめてくれます。

普通に考えてしまうと、単なる否定意見が形成されるだけになります。なのでコツとしてはソクラテスメソッド的に「なぜ?」と言う問いを繰り返すというのが一番です。出てきた答えに対してさらに「なぜ?」を繰り返すというようなものです。

そして、一つの答えを深く掘り下げるというのもいいですが、枝葉のように一つの「なぜ?」に対して複数の答えを出すという感じで面積を広げていくというのも有効的です。

「横にも縦にも広げまくる」ということをしていると、評価というものが何なのかわからなくなります。

その時がチャンスです。

評価というものが何なのかわからなくなった時に訪れるチャンス

「評価」というものが何なのかわからなくなってくると、その先に見えてくるものがあります。

それは些かニーチェ的ですが「何にもないってことそりゃあ何でもありってこと」というような、超人的な積極的ニヒリズムであり「すべての価値の価値転換」が起こります。

様々なものにつけられていた価値が、誰かの都合によって作られていたある枠組みの中の価値であり、様々な「こうした方がよい」というものは、そうした枠組みの中でうまくやるルールにしかすぎないというようなことが見えてきます。

ただ、毎度のことながら「否定の感情」や「抵抗」は、その対象に力を与えることになります。「存在」を肯定してから否定するというような構造になってしまうからです。

本当に関係がなければ、「くう」でも「から」でもどちらでもいいですが「空」という感じになります。有としての1を想定した上での0になると、観念としては1を支えることになりかねません。

一切の価値を中立的に考えていくと、おそらく「ただ、それだけ」という感想がやってくるでしょう。

そして「ただ、それだけということすら朧げ」という感想もやってきます。

さらに「ただ、それだけであり、すでに過去となった」というような感じになってきます。

ということになったところで、もう一度、個人的な満足の方に目を向けます。

「様々な制限が見えるものを見えなくしていた」ということに気づいてしまうかもしれません。

ただ、満足というものはどうしても不足が埋まっている状態、「満たされている状態」という印象を与えます。しかしながら突き詰めていくと「そもそもの不足がない」というようなところにたどり着いてしまうでしょう。

Category:philosophy 哲学

「個人的な満足こそがすべて」への2件のフィードバック

  1. bossuさんこんばんは。
    今まで様々な記事を拝見させていただいておりましたが、
    はじめてコメントさせていただきます。
    こちらのサイトの記事やスッタニパータ等ゴータマ氏の関連書籍などのおかげで最近は自我の扱い方に多少なりとも慣れてきました。
    こうした自我に対する観点や苦しみを除く方法論などが、これからも必要な方に届いてくれることを願います。

    社会における様々な評価基準は所詮人間の自我より出じたもので、蓋然的な正当性はともかく絶対的な正当性を見出すことは出来ないよなぁといったことは私もよく考えていました。
    なぜそうした基準が正しいといえるのか?といったことに、少なくともその辺の人は答えてくれないどころか、
    疑問に持つことそのものを不思議がられるというのは、ある種の人にとってはよくある経験かと思われます。

    さて、一部のスポーツなどで社会的評価を得られる理由として考えられるのは、『観客の体感的な効用が高く』『観戦行為に需要が生まれ』『金銭価値を発生させることが出来る』といったところでしょうか?極めて資本主義的な価値判断ですね。

    私事ですが私はそうした基準の対極、いわば例として挙げられているような
    100人しか見てもいないしやってもいない謎の自作ゲームなどは、
    その行為の中にそもそも存在しない『価値の実体』なるものを持っているかのような顔はしない傾向があり、
    資本主義的に価値を認められて何かがあるフリをするものよりも
    幾分かは在り方として誠実であるとも考えます。(びた一文にもならない誠実さの是非については置いておきます)
    さらに社会的価値基準の下で否定されればされるほど
    それはそれである種の力を増していきますが、
    無論それは二元論的尺度の構造的歪みに由来したものなので、最終的に良い結果は生まないでしょう。

    しかしおっしゃられているように肯定や否定など概念の内での選択肢は概念に力を与えてしまう罠のようなもので、
    根底からしてあやふやな価値基準などという概念の束縛の内にとどまる必要は本質的には存在しません。
    言ってしまえば各価値基準の呼び方やその実体、ソシュール風に言えばシニフィエとレフェランも別になんだっていいようなものです。
    それがどれほど馬鹿馬鹿しいものかを示せるよう、ちょっとした仮定をしてみました。

    もし何らかの神的な力によって社会への介入が起きたとしましょう。
    その介入によりまかり間違って『みんなのGOLF場ボール拾いのスコア』が何よりの評価基準とされる社会システムへと変貌してしまいました。スコアはお金のようにも使えます。
    社会やら生産やらのシステムは神的なものが管理していて逆らえず、しかし人の感性は現代社会そのままです。
    この時点で世の人々は阿鼻叫喚でしょうが、しかしながら本質的には『スポーツ』の呼び方が『ボール拾い』に、
    『お金』の呼び方が『スコア』になっただけで別に何も変わっていません。きっとそのうち慣れてくることでしょう。
    そう考えると世間的な価値基準という概念が何とも間の抜けたものになってしまいますが、
    実像としてはこの程度のものと考えております。

    しかしそんなゴルフボール拾いやそのスコアと本質的には同レベルである
    ギャグじみた価値基準を宗教的ドグマの如く絶対視したり、
    あるいは絶対視まではせずとも一定程度には真に受けたりして価値基準に重きを置いてしまうなどした結果、
    価値基準由来の様々な要因で苦しむ羽目になってしまう人は世に数多くいます。

    それらの苦しみの根底はパラノイア的に外部へ拠り所を求めることに定評のある
    例のアイツこと自我による血迷いの自作自演の偶像崇拝であり、
    その行いを直観して見抜く、それこそが概念の鎖による束縛からの解放へとつながると考えました。
    bossuさんがきっとそうした意図をもってこの記事を書かれたように、
    私もこうした苦しみを生む迷妄が世間から少しでも除かれますようにと願うばかりです。

    記事を自己流に解釈して表現してみましたがもはや釈迦に説法といった内容であり、かつ少々長くなってしまいました。
    拙い文章ではありますが、読んでいただけたなら幸いです。
    これからも愛読させていただきますゆえ、何卒よろしくお願いいたします。
    (このコメントにバイトヘル及び瀧氏をディスる意図はありません)

    1. コメントどうもありがとうございます。

      社会的評価による精神の満足ももちろんながら、社会的評価から起こる金銭についても、所有の感覚や消費による効用からの精神の満足にたどり着いてしまうので、結局、己の内側の状態だけのものになります。
      そんな中、外界の状態を条件にすると「良くなるつもりが振り回される」ということになってしまうので、本末転倒になるという感じになっています。

      抽象化した「みんなのGOLF場ボール拾いのスコア」は面白い例えですね。具体的な要素が変化しても基本構造は同じという感じで基本的な煩いは残るということを示唆しています。

      社会においては、シェア率によって社会的評価の正当性がゆらぎ、また一方で、良いことであっても「人がやっていないのであれば、自分もやらない」というような変な構造がたくさんあります。

      というようなことも、社会を観るだけでなく、自己の観察をももって見抜くというのが大切になってきます。
      それがおっしゃるような「概念の鎖による束縛からの解放」につながっていきます。

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