不安は人を成長させます。
筋肉に負荷を与えるとムキムキになっていくように、ストレスというものは人の心を成長させます。
ただ、そこから抜け出せずに無限ループして神経をすり減らしている状態の人がいます。
期限の定まった不安なら、終わる時点が決まっているのでクリアはたやすいですが、たとえばニートの人なんかは、お金をくれている人が死ぬくらいでないと終わる決定的なきっかけがないので苦しんだままだと思います。
ストレスと向き合った人が成長する
なんとなく生ぬるい生臭いような生活が続きます。
でも、どこか本気では楽しくなくて、どこかでストレスを感じています。
突発的な急激な負荷を恐れて、それを味わうくらいなら、いまのゆるい負荷のままでいい、と思っています。
「ストレスで成長していないじゃないか!」
そうお叱りを受けそうですが、ストレスと真っ向から向き合った人が成長するだけです。
不安を感じても、実際にやってみれば、そんなにたいしたことはありません。
あの不安はなんだったんだ?
振り返ると「あの不安はなんだったんだ?」という感想がほとんどです。
自己啓発万歳の世界では、「リスクをとっていけ!」と体育会系のようなことを言いますが、世の中のみんなが不安も感じずに飛び込んでいけるほどの脳みそ筋肉くんではありません。
不安を感じても軽いことからやってみればいいと思います。
自己啓発万歳は「今すぐ退職して起業しろ!」とか「飛び込み訪問100件!」とかいいます。
でもそんなことしなくても、まずは取るのをためらっていた有給休暇の取得を申請してみるとか、気になっている異性をデートに誘わなくてもいいから「3分だけ喋ってみる」とかそんなことでいいと思います。
意外とすんなりいったりします。
で、うまくいかなくても別にいいじゃないですか。
悶々としていても、可能性は残るかもしれないけど、実現はもちろんしないし、実際やってみてもうリベンジは許されないとしても、もっと別の楽しいことに出会えるチャンスが来るはずです。
いままで、意識は向けながらも、イマイチ燃焼しきらなかった事柄に注いでいたエネルギーと視点が、飽和状態になって、また安定を求めて別のものを自動で探すのですから、結果的にはいい方向に向かいます。
自信がついていくというよりも、不安自体は大したことではないということに気づく、という感じでしょうか。
安心と涅槃
「本当の安心は、死んだとき」とか言う人がいますが、そんなことはありません。
生きていても涅槃に入ることはできます。むしろ涅槃は生きていなくては入ることができません。
それについて書き出すと、恐ろしく長い文になるおそれがありますので、今の所はやめておきます。
気が向けば書くかもしれません。
結構長文になりましたが語り得ぬような涅槃寂静について、涅槃ではないものを中心に触れてみました。
改バージョン⇒不安こそ生きてるあかし 改
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