悲しみなどよりも真っ先にやってきたのは、先日の水木しげる氏にちなむとすれば「フハッっとなる遣る瀬無さ」。
まあもちろん検索経由のアクセスは拒否しつつ、湧き上がれば追記するという形で書き記しておこうと思います。
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友達の妹が死にました。就職を機に遠方に行ってからは友人経由でたまに話を聞く程度で、最後に会ったのは彼女が大学生の頃です。なので、もう随分と会っていませんでした。
あまりにすっぽん的に友人が銭湯に誘うので何事かと思えば、妹の訃報を知らせたくて仕方なかったということのようでした。
ただ、それほど驚きもなく、友人もまた同じように驚きもなくという感じでした。
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死因は自殺。首吊でした。
遺書はなく、直前の手帳の走り書きに「苦しい」という言葉が延々と書き綴られていたようです。
「我が子との心中」を思うような記述もあったようですが、結局独りでということのようでした。
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「フハッっとなる遣る瀬無さ」は、精神科医に向けられたものです。
小学校高学年の頃から拒食症と過食症を交互に繰り返す摂食障害になっていたのは出会った当時から知っていましたが、遠方に行って最期の直前に診断されていたのは「産後鬱」。誤診もいいところです。
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かつて、特に意識もせずに友人宅でちょっと顔を合わせるたびに声をかけ続けていると、帰りしなに話に来てくれて手を振ってくれた妹。
約束も無きまま僕がふらっと友人宅に顔を出し、友人本人がいないときでも少し話して帰り際には手を振ってくれた妹。
「あいつがそんなことをするなんて考えられん」
友人を含めそのご家族の全員が驚いていたくらいの奇跡的な出来事だったようです。
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マニュアルだけ見て行う薬物療法など、まあ慣れればバイト君でもできます。
「苦しい」
その言葉を心底受け止め、共感し、本気で苦しみから救おうとする精神科医はどれくらいいるでしょう。
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まだ僕も彼女も十代の頃、彼女は稀に「俗に言う問題行動」を起こすことがありました。
それを僕と友人(彼女の兄)は、爆笑していました。
当時ですら、摂食障害は「自殺を含め10年以内に何かしらの形で亡くなる」と言われていましたが、地元にいる間は、問題を問題とせず、「笑いの天才」として評価する兄などのおかげもあってか、まだ大丈夫そうな感じでした。
「フハッっとなる遣る瀬無さ」は、何事も真面目に取り扱い、笑いに昇華することを「失礼なこと」とするような義務教育の成れの果てに向けられたものでもあります。
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摂食障害のきっかけは、まあ例のごとく「痩せればモテる」というような風潮です。
確かちょっとぽっちゃりだったことを同級生がからかったというエピソードからスタートしたはずです。
それで吐き癖と断食癖がつき、次には抑圧した分の解放として暴飲暴食を繰り返すというような感じでおかしくなっていったようでした。
そして亡くなる直前もダイエットサプリとプロテインのみを摂るような生活になっていたようです。ある程度痩せてきたということで元に戻そうとしてもプロテインしか受け付けない状態になっていました。
精神のことは精神のことで体とは別件というような論調もありますが、食事はビタミンの合成やホルモンの生成に大きく関与するので、歪んでいると精神に追い打ちをかけます。
特にプロテインのみという生活は、腸内環境を狂わせ、また、血を汚します。
ある程度体を動かしたほうが、体は楽だというのならばいいですが、「痩せればモテる」というようなことを吹聴するダイエット産業、スリムな体くらいしか誇ることのできない体育会系などが作り上げた歪みが彼女に集束したと思うと「フハッっとなる遣る瀬無さ」がやってきます。
そうして歪んだ体調がまた精神に追い打ちをかけ、もう取り返しのつかないところまで彼女を連れていってしまいました。
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誤診甚だしい精神科医に対して、責任を取れとは言いませんが、どういうつもりなのかは聞かせて欲しいというのが本音です。
「そんな過去の事実は聞いていない」というのは簡単ですが、表出される言葉が全て真実を示しているとは限りません。
「大丈夫」という言葉を出していても、せめてもの強がりということもよくあります。
表面に出てきた言動だけをマニュアルと照らし合わせて、薬を出すくらいなら誰にでもできます。
信頼を得て「奥にあるもの」を引き出すことができなければ、流れ作業のバイトと同じです。
苦しさをなんとかしたくて重たい体を引き摺って彷徨った結果、たどり着いた先が「表面しか見ない藪」だった場合、もうどうしようもなくなってしまいます。
ひとつ注意しておくことは、世の中には藪もたくさんいるということです。
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手帳の走り書きに「もう良いと言われることは全て試してみたがダメだった」という一言があったそうです。
そんな直前の彼女のことを思うと「フハッっとなる遣る瀬無さ」がやってきます。
常識や権威によって隠され、見えなくなっているということがよくあります。
情報の信頼性の基準の一つとしての権威性は、一つの目安とはなりますが、同じような肩書を持つような同じような権威の間でも相反する見解や方針があったりすることもよくあります。
なので、ばったり会った最初の人が、そこそこの肩書を持っていたとしても、世で同等の扱いを受けている他の権威は、真逆のことを言っているということもあるということを念頭に置いて、「偉人が言っているんだから、そうなんだろう。じゃあ仕方がない」というふうには考えないほうが賢明です。
理は揺るぎのないものであり、究極的には「答えは一つ」だったりもしますが、考え方や時代を含め、今の状態や環境によって示されうることは一見真逆とも取れる別の表現になっている場合もあります。
表面的な言動をDSM等々のマニュアルに照らし合わせることくらいしかできないようでは頼りない感じがしてしまいます。
診断といえば診断ですが、アンケートを元にした性格診断レベルのことしかやっていないというような印象を受けます。
最後にたどり着いた先が頼りないからこそ、それに絶望した人々はスピリチュアルやカルト宗教に走ったりもするのでしょう。
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「よほど苦しかったんだろう」ということを思う程度で、悲しみや怒りというものはあまり感じたりしません。
強いて言うなら、「フハッ」っとなる遣る瀬無い感じが時折やってくるという程度です。
それはまたどこかしらで、エネルギーとして吐き出さずにはいられなくなるでしょう。
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