
アンカリング効果(Anchoring)とは、ある基準を与え、後の判断の際にそれ以前に提示された基準が影響を及ぼすという効果で、狭義には、係留効果(anchor effect)を意味する。また、「アンカー(錨/いかり)とトリガー(引き金)」という概念で、ある特定物との関連付けにより、その刺激に触れると特定の概念や情動を呼び起こすこともアンカリング、アンカーリングと呼ばれる。
アンカリング効果は、先行する情報として、後の判断に直接関係のないような「数値」や「色」が影響を与え、本来その情報とは関係のない「後の判断」の際にそれが影響を与えてしまうという効果である。
係留効果
係留効果(anchor effect)とは、順応水準と密接な関係があり、知覚判断において刺激系列の値からかけ離れだ刺激を挿入すると、その刺激に対しては直接判断していないにもかかわらず、刺激系列に対して影響がおよぶ効果。係留効果において挿入される刺激を係留刺激とよぶ。
係留刺激
係留刺激(anchor stimulus)とは、通常「刺激系列の刺激値とはかけ離れた値をもつ刺激」で、知覚判断において刺激系列の間に挿入され、直接判断されない刺激。
アンカーとトリガー
また、アンカリング効果として、アンカーとトリガーという概念が用いられる場合がある。これは、係留効果の応用のような概念であり、例えば特定の言葉と特定の情動を結びつけることによって、言葉の刺激だけで情動が蘇るように刷り込むという概念である。
例えば、結婚詐欺などにおいては、まず恋愛初期において抱擁などの時に「結婚」という言葉を何度も唱えることによって、詐欺師側が「結婚」という言葉を「ふわふわした恋の心地よさ」や「胸のドキドキ」と結びつける。その後、自分が疑われたり、都合が悪くなったときには「結婚」という言葉を用いて、相手に情動を呼び起こさせ、情動優位の状態に持っていき、その場をはぐらかすという感じで悪用されたりしている。
ブラックベンチャー企業の号令「最年少上場!」も同様である。
もちろんカルト宗教などでも、洗脳・マインドコントロールにおいて大いに悪用されている心理テクニックである。
「初期値という重力」アンカリングの認知的メカニズムと限界
アンカリング効果(係留効果)は、不確実な状況下で数値的な推定を行う際、最初に提示された数値(アンカー)が精神的な「錨」として機能し、最終的な判断をその数値の周辺に強力に引き寄せてしまう現象である。この心理バイアスは、提示される数値が全く無関係な乱数であっても発生し、専門家による高度な意思決定においてさえも、その重力圏から完全に逃れることは困難であることが示されている。行動経済学や交渉術の基礎となるこの概念は、人間の理性が絶対的な尺度を持たず、常に「比較」を通じて世界を計測していることの証左でもある。
「調整不足」というヒューリスティックの罠
1974年、エイモス・トベルスキー氏とダニエル・カーネマン氏が行った歴史的な実験は、この現象の不合理性を鮮烈に描き出した。彼らは被験者にルーレットを回させ、出た数字(例えば10や65)を見せた後に、「国連加盟国のうちアフリカ諸国が占める割合」を推定させた。論理的に考えれば、ルーレットの出目と国連のデータには何の因果関係もない。
しかし、結果は明白であった。大きい数字を見せられたグループの推定値は、小さい数字を見せられたグループよりも有意に高くなったのである。彼らはこのメカニズムを「不十分な調整(Insufficient Adjustment)」として説明した。人は推論を始める際、手近にある数値を始点(スタート地点)として設定し、そこからもっともらしい値に向かって微調整を行う。しかし、この調整プロセスは精神的な労力を要するため、正解に到達する手前で力尽き、始点に近い位置で判断を停止してしまう傾向がある。つまり、アンカーとは思考の旅における「出発点バイアス」として機能する。
選択的アクセシビリティ・モデルによる再解釈
その後の研究において、アンカリングは単なる調整不足だけでは説明しきれないことが明らかになってきた。特に、突拍子もない極端なアンカー(例:ガンジーが亡くなったのは140歳か?9歳か?)が提示された場合でも効果が持続する現象に対し、フリッツ・ストラック氏とトーマス・ムスヴァイラー氏は「選択的アクセシビリティ(Selective Accessibility)」モデルを提唱した。
この理論によれば、アンカーが提示された瞬間、脳はその数値が「正解であるかもしれない」という仮説を無意識に検証し始める。例えば「車の価格は500万円か?」と問われると、脳内ではその車が500万円である理由(高級感、ブランド、スペックなど)と合致する情報が優先的に検索(アクセス)される。この確証バイアス的な情報処理によって、アンカーと整合的な知識ばかりが活性化され、結果として判断がその数値に引きずられることになる。これは「調整」という意識的なプロセス以前の、記憶検索におけるプライミング効果に近いメカニズムである。
司法判断と専門性の限界
アンカリングの恐ろしさは、それが素人の無知に付け込むだけでなく、その道のプロフェッショナルをも欺く点にある。ビルギット・エングリッヒ氏らの研究では、経験豊富な裁判官に対して架空の窃盗事件の量刑判断を求めた際、検察官による求刑(アンカー)が乱数サイコロによって決められた数字であったとしても、最終的な判決がその数字に有意に左右されることが示された。
不動産鑑定士やディーラーを対象とした実験でも同様の結果が得られている。専門家は自身の知識体系を持っているため、素人よりはアンカーの影響を軽減できる場合もあるが、完全に無効化することはできない。むしろ、自信過剰がメタ認知を阻害し、自分がバイアスの影響下にあること自体を否定してしまうリスクも孕んでいる。
交渉における初期値設定の戦略的優位性
ビジネス交渉の場において「最初の価格提示(ファースト・オファー)をどちらが行うべきか」という古典的な問いに対し、アンカリング理論は明確に「先手必勝」を示唆している。最初に提示された価格は強力なアンカーとなり、その後の交渉レンジ(ZOPA:合意可能領域)の中心点を決定づけるからである。
ただし、あまりに非現実的なアンカー(極端な高値や安値)は、相手に「悪意がある」と見なされ、交渉決裂や「対抗アンカー(Counter-Anchoring)」による無効化を招くリスクがある。現代の交渉理論では、単に高い数値を出すだけでなく、もっともらしい根拠を伴った「正確な数値(Precise Number)」(例:100万ではなく102万5千円)を提示することで、アンカーの信頼性を高め、調整の幅を小さくさせる「精密アンカリング効果」の有効性も指摘されている。
最終更新日:
