アフォリズム 521-530
- 521.法則の解説の異なり
- 522.威勢の良さと年齢
- 523.雑さ繊細さと腹
- 524.腹が弱く繊細な者の優位性
- 525.私の責任
- 526.責任の具体的内容
- 527.真面目さと正しさ
- 528.嵐が起こった時
- 529.高めて降ろす
- 530.観察
521.法則の解説の異なり
現象や心についての様々な法則の解説の異なりは、各々の見えている範囲、前提条件が異なることに加え、各々が印象を語るからこそ起こる。
522.威勢の良さと年齢
何かにつけ威勢の良さで突破してきた者は、いくつになっても威勢の良さで押し通そうとするが、それがよく通じるのは未成年の間であり、大人になると頭を使わなければ突破しにくい。
ということすら、頭を使わなければわからないということから、いくつになっても威勢の良さだけに頼る者がいるということになる。
523.雑さ繊細さと腹
雑さや繊細さは腹の強さによる点が大きい。
生まれつき腹が強い者は、様々なことが気になりにくいため雑になりやすい。気にならないため、社会、とりわけ経済社会ではある程度活躍しやすい。
こうした者が説く様々な考え方や心理的な事柄は、生まれつき腹が弱い者には受け入れ難い。理由は、雑だからである。
腹が強く雑な者は、様々な不安に対し、
「気にしなければいいじゃないか」
と安易に言う。
「どのようにして?勝手に巡る思考はどのように取り扱えばよいのか?」
というような点を、
「気にしなければいい」
で押し通す。
間違いではないが、腹の弱い者としては、呆れるしか無い。
腹の弱い者は、まず腹を整えることから始めよう。
524.腹が弱く繊細な者の優位性
元々腹が弱く繊細だった者が体と精神を整え、心身ともに強くなった時、社会生活においては本当に汎用性のある事柄を発見しやすくなり、そのまま普遍的な理を発見しやすい。
体の機能として腹の弱さをある程度引き摺るとしても、雑な人間には到達できない領域に達することができる。
代表例は、ゴータマ・シッダールタである。
525.私の責任
私というもの、私の意志決定要因は、全て外界の情報から生じているということから、何かしらの罪があったとしても、「私に責任はない」と考えることができる。
ただ、他の誰の責任にもできないものとして、社会的には裁かれることもあれば、さらにそうした一般論を超えて、この心が一つの罰として「苦を受け取るかどうか」という点において、逃れ得ぬ責任というものがついて回る。
これは「どのように現象を観ているか」という意志の向きについての精神としての責任であり、こうした「他者は関係し得ないすべてを通り越した責任」のようなものが常にあると考えておいた方が良い。
526.責任の具体的内容
私の責任の具体的内容は、一般認識レベルで言えば、どのような時でも、外に欲や怒りを向けず、「私の内側の問題」として、なるべく肩の力を抜いて楽になり、なるべく明るい方を向くというようなものになる。
つまり、なるべく外界に依存せず、反応せず、気楽に明るく過ごすという責任というようなものになる。
527.真面目さと正しさ
物事をあまりに真面目に取り扱うということは、正しさは帯びつつも楽しさややる気、勢いを削ぎ落とすことがある。そうなると正しさは含まれているが、全体的に見ると完全に正しいとは言えなくなる。
528.嵐が起こった時
嵐が起こるように不運が続く場合は、基本的には何もせず静観するのが正しい。しかしながら、内から猛烈なエネルギーを吐き出すという方が正しい場合もある。
529.高めて降ろす
無理に考えを生み出そうとするよりも、気力を高めて自然に降りてくるのを待つ方が楽で正確である。
530.観察
観察においては、思考、解釈、判断を加えてはならない。
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