高校生くらいの時のことですが、何かのアニメの脇役のおじいさんが「答える義務はない」というセリフを言っていたのを観てからというもの「そうかぁ。答える義務はないのかぁ」と、ひとつの返答の形を学習してしまいました。
まあ義務と言っても究極的には何かしらの権利が欲しければ的な仮言命法的なものにしかすぎないので、権限の維持や相手からの好意等々を含めそうした対となる対象を欲しなければ何事に対しても義務というものはないという感じになっています。
そう考えると他人に対する責任というものは、相手からの信頼等々を欲する場合にしか生じないということになりますし、現実的に「無責任だなぁ」と言われているような人たちはまさに無責任が成り立つ形で生きていたりもするわけです。逮捕されて有罪になっても問題はない、究極死刑になっても良いとまで思っているのなら、本当にどうしようもありません。
ということなので、誰かからの怒りや攻撃の回避というもの含め、相手は責任的なことに対して本当にどうでも良いと思っているのであれば、いくら責任について言及したところでそんな相手には通じません。
「答えが返ってくる」というありがたさ
という一つの極論を前提に置いておくと、少しでも責任を感じてくれている相手に対しての当たり前の感覚は消え、ありがたみの方が生じてきます。
「答えなさい」と言っても、究極的には答える必要はない中、答えが返ってくるだけでも万々歳です。
という感じになるので、相手に対する要求の基準というものはかなり曖昧なものです。曖昧な範囲で自分が勝手に決めたことにしかすぎません。しかしもちろん自分にも都合があるので、都合が折り合わない場合は致し方ありません。
だんまりを決め込みのらりくらりと現役続投
そういえば、いつだったか社会問題として盛り上がっていた脳筋体育会系の大学のお偉いさんはどうなったでしょうか?
現在の当該大学の役員構成を見る限り現役です。ということは、のらりくらりと現役続投という感じになっているようですが、世間的にはそれをどう思っているのでしょうか。
特に我が事としては関係がないことなので本当にどうでも良いのですが、義務がありそうなものであっても「答える義務はない」が通用し、時間が解決するという感じになっているのではないでしょうか。
まあそんなことも平然と起こりうるという感じなので、世間の評価等々も朧げで取るに足らないということになるでしょう。
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ねがふは明かに答え給へかし。
要求の基準が朧げたるゆえに義務も責任もまた朧げなものとなる。
「答える義務はない」「返事をしなければならない義務はない」という感じになりますが、そうした義務のようなものは権利の裏返しとなります。そして、「答えること」は、約束事などが嘘になってしまう可能性というものを含んでしまうことになるという構造があります。
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