「弁証法は、神的な存在と現象の面紗(ヴェール)の背後とに到達するためのただひとつの道である」― プラトンはこのことを、ショーペンハウアーが弁証法の反対を主張するのと同じように荘厳に、情熱をこめて主張する。― だが、二人とも間違っている。なぜなら彼らがそれに至るひとつの道をわれわれに示そうとしているものは、全く存在しないのであるから。 曙光 474 前半
「道」という字を見た時に真っ先に松下幸之助氏を思い出しました。ついでに言うと「夢」と言えばホンダドリームです。
「結局リバイバルですね」
ということですが、「道」も「夢」もさらにいうと「絆」なども、彼らのような人があの時代に言っているのならば、違和感がないのですが、黒いTシャツに白地で「夢」とか「絆」とか書いたようなものを着ている居酒屋やラーメン屋やたこ焼き屋などの粉もん屋を見るとぞっとします。
本田宗一郎氏が「夢」という場合の夢と、あの手の人の夢は性質が全然違いますから当然です。
後者の「夢」は、同級生にカッコをつけたい程度ですが、おそらく本田宗一郎氏の場合はもっと壮大なものだという印象がつきます。
あの手のことが書かれた服を着ている人は本当にたまにいますから毎回爆笑しています。
コンビニなどで体育会系が、自分の大学の名前の入ったスウェットパンツを着ながら、「絆」と書かれたTシャツなどを着ているのを見ると、思わず腹が痙攣しだします。
弁証法の先
さて、少しだけ弁証法についてでも触れましょう。
「残酷な天使のテーゼ」で、一躍名前が広まった「テーゼ」や「アンチテーゼ」です。
アンチテーゼに関しては、世間ではただ単に「反対意見」みたいに取り扱われますが、だいたいで言うと矛盾を偽と扱わないといった感じです。
まあ真反対のことも成り立つとして参考に入れて、もう一段高いところを考えていきましょう、というようなことです。
弁証法に関しては、プラトン、アリストテレスよりもヘーゲルとかマルクスの方が有名だったりしますが、それぞれの人物によって弁証法の意味合いが変わってきますので、なんとも言えません。
引用ではプラトンについて触れていますね。
「弁証法は、神的な存在と現象の面紗(ヴェール)の背後とに到達するためのただひとつの道である」
歴代哲学者達の弁証法の前提
しかしながら歴代の哲学者達の弁証法は、たいていその先に「絶対神」のような前提が置かれていたり、無形であっても必ず唯一の本質が「存在する」という結果になっています。
何かを考えていくにあたっての方法としての弁証法のやり方は結構いいのですが、最終的に今まで培った固定観念で変な結論になります。
日常的なレベルの問題であれば、弁証法的に考えていくことで重要なポイントの抽出によって着地点を発見できたり、問題解決の緒を掴むことができたりします(問題が生じた時に意識に余裕を生み出す論証)。
しかしながら、不可知領域等々に関する信念・固定観念の影響で、結論が変な方向に行ってしまうこともあります。
まあアイツの仕業なので仕方ないのですが、ひとまず本質のようなものが「ある」か「ない」かで、「ある」としたいということになっています。
が、「ある」と「ない」を抽象化した「空(くう)」ということを考えもしません。
「向自有だ即自有だ」とかそういったことを考えるのは好きなのですが、大前提が社会という虚像だったり、絶対神の下にということになっているので、近いようなこと言っていても、結局空回りです。
弁証法で、「神的な存在と現象の面紗の背後とに到達する」といっても、到達したら何なんですか?
という問題になります。
「それがどうした」ということです。
「無知の知」で無知を知ったから、それがどうした、ということです(「無知の知」による迷宮からの脱出)。
まあ何かで社会が良くなったとしても、「それがどうした」ということになります。
結局五感で感じて意識で判断した結果を得ているのに過ぎないのですから。
ただひとつの道 曙光 474
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