「真理」という字を見ると胡散臭い印象がしてしまうため、あまり使いませんが、なぜ胡散臭い団体ほど真理という言葉を使うのでしょうか。
やはり、「あなた達の知らない真実」という旨で使うのでしょう。そして私は知っていて、教えてあげるから私を拝みなさいというようなことを思うのでしょう。
残念ですが、彼らの言う真理など「再現可能性のない妄想だ」と言われても、それを覆すことは彼らにはできません。
根本的に大前提となっている事柄がおとぎ話のような仮定であり、その根拠自体も文献が古いとか伝統的だとか、その程度です。
そんな宗教系の胡散臭い真理もあてになりませんが、多少科学的な「心理学的な法則」も、結局は統計的だったり、根拠としては本人の感情くらいしか証拠となり得ないため客観性はありません。
典型的な「曖昧な真理」
胡散臭い団体が説く真理には様々なものがありますが、よくある典型は「きちんと物事に感謝しよう、きちんと『ありがとう』を言おう」というようなタイプの「真理」です。そんなことは義務教育でも言われ続けているどころか、義務教育前の幼稚園でも教えていることです。
こうした感謝の効用として、実際に気持ちが軽くなるというようなものがあるため、法則性があるといえばあるという感じにはなります。
しかし、それで気持ちが軽くなる、ということを「真理だ!」とすることは早急です。定義にもよりますが、真理というものは、絶対確実、揺るぎない理でなければなりません。
おそらく「真理」自体の定義が曖昧なまま、フィールドによって異なる「文化」や「常識」と同じくらいの感覚でその言葉を使っているのでしょう。
「間違っていなければ真理としていい」、という厳密性に欠けている「定義付け」は、間違っています。そういうことをいう人を攻撃したり、考えを変えさせる必要はありませんが、頷く必要もありません。
感謝をするのは良いですが、「感謝をして気持ちが軽くなる」ということを根拠に、外界の実存、つまりは自己も自己とは独立した社会も「存在する」ということまで話を引っ張る危険性が内在している、という点には気づいているのでしょうか。
おそらく気づいていないでしょう。
胡散臭い宗教にありがちな論理
そして、自己の実存とは何なのか、ということで「魂だ」とかそういう話になって「最後には天国に行こう」というようなことになります。
そして、「天国に行くためには?」という方法論の話になり、「感謝をすれば気持ちが軽くなる」と教えてくれた人が説く方法論に夢中になります。
こういった構図が胡散臭い新興宗教にありがちな論理です。
残念ですが、すべて根本的に自我による錯覚です。
そういった考えと同化せずともせめて「受け入れる」というのが「大人だ」というのも自我の意見です。
「そういった人たちを否定せずに、『そういった考えもある』ということを受け入れる人が人格者だ」とするのも自我の意見です。
なぜなら、人格者だと認めたりするのは社会であったり、つまりは他人です。
他人というものも、五感と意識によって、意識の中で判断され、形成された、あるともないとも言える情報であり、その人達に認められて、それがどうしたということになります。
どうしたというのでしょうか?
他人に承認されると、安心します。その安心は、「他人に攻撃されない」という身の安全という安心です。
もう少し言えば、他人に嫌われないことによって、現実社会で言えば他人との関わりによって仕事になったりして、食い扶持ができるという点もあります。食い扶持ができれば、生命維持のためのエネルギーを確保できます。
カンが良い方ならば、すぐにおわかりだと思いますが、これは全て「生命維持のため」の意見です。つまり生存本能であり、生存本能発端の恐怖心が、理、このタイトルに沿えば「真理」を捻じ曲げてでも、「生きろ!」と命令しているだけのことです。
そして、「真理」という言葉すら利用して、「もっと楽に生きるために!」と衝動を与えてきているということです。
「気持ちが軽くなる」というのは、苦しみという信号が減っているということです。
だからこそ、そういった行動などは良いことです。
しかしながら、それを根拠に関連思考を働かせて、妄想妄言を勝手に「真理」にしてはいけません。
感謝をして気持ちが軽くなる
そこで、意識を観察をしてみてください。
「感謝をして気持ちが軽くなる」ということを、いきなり「真理だ!」としてしまわずに、なぜ気持ちが軽くなるのかを考えながら意識を観察するということです。
所詮、情報など印象程度のものですから、経験則上でも構いません。
神様仏様的なことを度外視して、根底に「生存本能による恐怖心をすべての生命が持っている」ということを念頭に置いて考えればわかりやすいかもしれません。
まだまだアイツの中であろうと、考えてみてください。
すると自分の意識の中では、「快さを求め、苦しみを取り除きたい」という大前提があるはずです。
そして、相手もそれを持っているということです。
ということは、「危険を回避したい」という衝動は、生命体ならば本能的にどんな生き物でも持っているということです。
こちらが感謝をして、それを受け取った相手は「危険性が少ない」と判断するはずです。つまり、「感謝をしてくる相手だから、自分に危害は加えてこないだろう」という推測が相手の中で起こります。
そこで、相手の態度や表情などが和みます。
そして、その相手の変化を見て、自分の意識は「このような態度をとっているならば、自分には危害を加えてこないだろう」と無意識に推測が立ちます。
そして安心します。
と、これだけのことです。
そこで、例えばこちらが感謝をして、相手の表情が和んだとしても、「裏がありそうだ」とか「言葉はそれでも、態度や表情が違う」とか、「会社のマニュアルに書いてあるんだろうな」とか「いまは何とかやり過ごしたが、この人は自分の家族に暴力をふるっていると、他の人から聞いているからな」とか、そういった別の情報や推測があれば、安心度は減っていくでしょう。
すなわち、「相手が和んだ」という状態を意識が判断して、本能的恐怖心が落ち着いた、というようなことです。
いきなり「相手が敵かもしれない」とそこまで疑心暗鬼があるわけではなく、相手が仲の良い人であっても、相手に対して数%はそういった恐怖心を無意識に持っているはずです。
そして、そういった無意識下にある恐怖心が、意識の中でものすごい速度で判断を繰り返して安心の状態に変化していっているということです。
しかしながらその安心は束の間の安心です。
また、「感謝をして気持ちが軽くなる」に関してこういった面とは別の側面もありますが、今回はここまでにしておきましょう。
こんな小さな真理! 曙光 490
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