風習の倫理の概念

倫理とは、いかなる種類の風習であるにせよ、風習に対する服従より何ものでもない―。

風習とはしかし行為と評価の慣習的な方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理も全くない。 曙光 9 一部抜粋

さて、風習とはいったいどのようなものでしょうか。

「風習とは、行為と評価の慣習的な方式である」という感じでニーチェは語っていますが、まあたいていは各地域、土地ごとの文化的な風俗習慣を略して風習と呼んでいます。まあいわゆる「ならわし」ですね。

風習という言葉は、よく「文化・風習」というふうにワンセットで語られることが多いですが、その地域の文化というからには「本能的に必要なもの」ではない領域ということになりますが、たいてい風習は民間信仰、土着信仰、自然信仰などを含めて根源をたどると宗教的であったりします。

義務教育でも「宗教的なことはやはり憲法に違反するので、やめておこう」という思想の影響がありますが、「これは風習であって宗教ではない」という霞ヶ関・永田町スタイルで、結局宗教的なことを風習や文化だと解釈して倫理を定義していきます。

倫理と道徳が陥る罠

合掌を拒否

「文化や風習という解釈になれば何でもいいのか?」ということになりますが、そうしたものは発端が広い意味の宗教です。その風習を採用することで、行為の奥にある根源が特定の宗派に限定されてしまうというわけではなくても、民間信仰を含めて宗教的になってしまいます。

僕は昔から合掌を拒否してきました。「いただきます」だけなら宗教の絡まない風習かもしれませんが、義務教育で仏教式を強制されるのに違和感を感じていたからです。

どうして合掌を拒否してきたかというと、住んでいる所の周りにはたくさんの坊主がいるのですが、彼らは「先祖の供養」という名目で法外なお金を貪り、外車に乗って祇園に繰り出していることを小学生のときから知っていたからです。

朧気ながらこの世で最高にロクでもない人間だと思いました。社会的に非難されている犯罪者のほうが、社会からの非難がある分まだマシだという感想すらありました。

風習の名の下 宗教代の根拠を正当化

そういうわけで合掌を拒否し続けてきた理由は、義務教育で彼らの行動様式を半ば強制され、仏教式が日常になってしまえば、そんな人たちの生活を支える形而上学的・宗教的脅し、わけのわからない宗教代の根拠を正当化させるようなことにつながると思ったからです。

風習の名の下、人格や概念の基礎ができるような小学生くらいの時に「仏教とは大きく異なった鎌倉新仏教以降の宗教団体としての日本的仏教の方式」を半ば強制されることは、無意識的にそれら宗教団体の正当性を支えるものとなりうると考えた、という感じです。そして、国家がそんなことをしてしまってはダメだろうと小学生の時から思っていました。

それは同時に「先祖の供養代」といった、霊感商法まがいの宗教代を正当化することになるからです。

そんな細かいことはどうでもいいだろうと思われそうですが、そんな細かくて特に害がなさそうなことほど、無意識的な刷り込みがうまく機能します。そこを断固として拒否してきた、というだけの話です。

みんなが合掌をしているのに、自分はしないことへの罪のような意識があるならば、まさに風習への服従という意味での倫理であり、自分を制限し、苦しめるだけのものになってしまいます。そういうことの方が実は苦しみの元凶でもあります。

実際は「手を合わせるだけ」というただの行動ですが、そこには無意識的に刷り込まれた誘導の結果が存在しています。

一種の社会的狂気

カルト教団は危ない、と認識するのに、国家の中でありふれているものは大丈夫で、その人たちの言う言葉も無害なのだと思ってしまうことは、一種の社会的狂気だと思っています。社会的狂気であり社会的洗脳です。

行動としてはたいしたことが無いのですが、今一度、そういう風習への従属、風習という名の洗脳に無意識のままの奴隷になっていないか、再確認してみてください。

宗教代

墓場ビジネスと霊感商法

風習の倫理の概念 曙光 9

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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