順位

第一に浅薄な思想家がいる。第二に深い思想家―事柄の深みに入り込む人々―がいる。第三に徹底的な思想家がいる。彼らは事柄の根本を究明する。― これは、単に事柄の深みに降りて行くことよりも、はるかに大きな価値のあることである!― 。最後に頭が泥沼にはまりこんでいる思想家がいる。これはしかし深みのしるしでも、徹底性のしるしでもない!彼らは愛すべき地下のものである。 曙光 446

頭が泥沼にはまりこんでいる思想家というものは意外と結構いるものですが、当然に深みのしるしでも、徹底性のしるしでもありません。愛すべき馬鹿野郎であり、愛するということは好きになるということではありません。

第三の徹底的な思想家は、もし本当に徹底しているのならば、「思想家」の領域を超えているはずです。ですので、実際は第一と第二、そして最後のバカヤロウ、もしくは、それにも満たないようなギムキョな領域ということになります。

特にこれらの順位は相対的な人間の優劣ではなく、錯覚の中のキチガイレベルということになります。

順位というと、「他人に主張していい」という、「できればそれを根拠に優遇されたい」というものを思い浮かべてしまいますが、それはあくまで「関係性」の問題であり、関係性を持ちだしているということは自我の領域です。

それ発端で考えると、「いや、オレのほうが偉い」というような議論になっていきます。出だしから間違えると、そのような結果になります。喧嘩の元ですね。

そのような順位というものは「関係性の中の差」くらいのものですから、対象が二つ以上あれば大抵差があるものなので、順位を付けたい人はつければいいですが、それは順位をつけた人の判断基準であり、それに従う必要はありません、それに従うか否かの決定権はこちら側にしかありませんから、外でいくら騒がれようが、自分がその領域を採用しない限り、自分には何の関係もありません。

袈裟を着た素人

そういえば、最近よく坊主に間違われるようになりました。

坊主頭だからということもありますが、冬場は寒さ対策に帽子をかぶっているにもかかわらず、庭師や観光シーズンの短期バイトであろう方々に、その寺の人か、出張できている別の寺の坊主だと勘違いされる、というような事が起こるようになりました。

袈裟を着た坊主をみていつも爆笑しているのですが、今では彼らの着ている袈裟の方がユニクロの服より高いはずです。

元々袈裟というものは、糞掃衣(ふんぞうえ)と呼ばれるようなもので、布が貴重だった昔、「出家者が人から貰うものだけで全てをまかなうために布を貰う」と言っても家畜小屋の掃除用の雑巾くらいしか無く、それを継ぎ接ぎ合わせて着ていた服というものです。

現代で言えば、袈裟にあたるのは、フリーマーケットで「どうぞお持ち帰りください」と書かれた衣類などになりましょう。

「現代版の袈裟」醜くみえる

着るもので順位を決めているようでは、「キチガイだ」と宣言しながら歩いているようなものです。

袈裟をまとわねばならない、まとっていれば、それらしくなる、まとっていれば気分が変わる、まとっていれば、相手は、「その道の人だ」と思ってくれる、という何重もの錯覚です。

まして、古くからの資産にきれいな庭などを付加価値として付け加えて入場料をとっているようでは、まさに資本主義の申し子です。いえ資本主義の中でも地主思想のある、ゼロからでは起業もできない不動産オーナーみたいなものです。

植物園の何倍もの価格をぼったくっているわけですが、それには「所有」という執着と、「儲けてやろう」という貪欲と、「貧乏人は観に来るな」という排他的思想が内在しています。

そのようなことをして、何か人に教えを説くようなことがあるのかね?

袈裟を着たマーラ共よ。

墓場ビジネスと霊感商法

順位 曙光 446

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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