音には形があり、形をしっかり捉えられると楽曲はキレイにまとまります。
また形状や構造を捉えると「どうもフィーリングが合わないな」という共同演奏者同士の息の面も整ってきます。
昔指揮を担当していた時に次のようなことがありました。
四分の三拍子となっている8小節がどうも合わないということなので、息を合わせるためにどのように説明すべきかということを考えました。
その箇所は、スコア上の表記は3/4ですが、音符的な並びは6/8であり、かつ、小節ごとに3/4と6/8が交互に入れ替わるような感じでした。
さらに6/8に関しては、よくありがちな付点四分音符の二拍子系です。
まあ厳密には違いますが、単純に示すと
最初の小節は8分音符で ドドレレミミ
次の小節は8分音符で ドドドレレレ
という感じです。
音の高さで区切り音の長さを結合すると、最初のものは3つに区切ることになりますが、次のものは2つで区切ることになります。
なので、まとめてモデル化すると付点四分音符の二拍子です。
そうした違いがある中、楽譜上は3/4なので、セクションごとにことなるメロディー等々においてフィーリングにばらつきがあったわけです。
そういうわけなので、そんな感じの形状の違いを説明するとすぐに息が合うようになりました。
その時、恩師である物理の先生が顧問として同席されていたのですが、
「化学みたいやな」
とつぶやかれました。
まあまさに異性体みたいなもので同じ原子の構成をしていながら分子構造が異なるというようなものと同じです。
歌詞のハマり方
こうした構造に関連するのが歌詞のハマり方です。
そういえば藤子不二雄A氏の「まんが道」において、当時の雑誌(連載小説や漫画が一緒になったもの)の目次が載っている場面がちらほらありました。
その中の連載小説の場所に「サトウハチロー」という文字を見つけました。
「うーん。サトウハチロー…サトウハチロー…
『悲しくてやりきれない』の人じゃないか」
そういえば加藤和彦氏が「悲しくてやりきれない」についてサトウハチロー氏の歌詞の当て方の凄さを語っていたなぁということを思い出しました。
古い歌謡曲や童謡などにおいて作詞家の方が手掛けられたものは、音の形状と言語の字数・音韻の形状が調和されているものが多いような感じがします。
昔は結構「作家であり作詞家」という方もいたようなので、国語の使い方が非常に優れている感があります。
メロディーを楽譜に直した時に、5つの音があったとしてそれに対応する言葉が字数5でストレートにまとまるのか、3と2なのか、2と3なのか…というようなところは、山型・谷型など楽譜的な形状によって最適が変わってきますし、その前後がどのようになっているのか、というところも大きく関係しています。
思いを歌詞にというのはいいのですが、どうしてもそうした形状に対する言語の当てはめ方に関して、音楽的・言語的な整形に無頓着な感じを感じてしまうことがよくあります。
おそらくその背景には、どうしてもどっしりしてしまう「母音」への対応としてパパパっと言葉を流してしまう方法が乱用されすぎたというようなフシがあります。
それはそれで外国語における子音で終わる箇所の「スッキリしてるなぁ」感に対する日本語の「どうしても母音が交じるのでどっしりとイモっぽくなる」をうまく解消するものではありますが、それに甘んじて国語的な洗練の方があまり着目されていないというのは少し残念な感じがします。
メロディーの中にある一種の区切りたる実質的なまとまりとしての音の数と単語の字数、そして言葉と言葉をつなぐときの下の絡まり方などを含めて、より高度に洗練されていけばいいなぁと思います。
「思いを歌詞に」という中、最適な詩的表現とそうした音の形状との間にある最適な両方を満たすポイントを発見するということに楽しみを見出だせれば、歌はもっと洗練されたものになっていくはずです。
「いい詞なのになんだかあと一歩感があるなぁ」という場合、きっとそんなところが影響しているのでしょう。
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