離れて生き、そして信じる

その時代の預言者や奇蹟を行なう者などになるための手段は、今日においてもやはり昔と同様である。すなわち、僅かばかりの知識と若干の思想と極めて多くの自惚れとを抱いて、離れて生きるという事である。 曙光 325 前半

「離れて生き、そして信じる」ということで苦行や神格化についてでも触れていきましょう。

少し距離を起き、実態を悟られないままに、「すごい人」を演じていたほうが、相手は自分を神格化してくれる傾向にある、というのは太古の昔から変わりないようです。

ということで、苦行と神格化です。

苦行がモテる

社会ではなぜか苦行がモテます。

「難関をくぐり抜けた」という方が評価される傾向にありますが、結果が同じなら、そんなものは必要ありません。

ある種難関をくぐることによって、それを経たことによって別のケースにも対応できるという経験値があれば、多少の評価も意味があるかもしれませんが、苦行自体に意味はありません。

しかし何故か奮闘して挑戦したり、苦行をしたり、と難関をくぐり抜けたことが評価されます。特に体育会系思想を持っている人には大人気です。

能率の悪いことでも、奮闘してしまうのはひとつの怠けです。奮闘によってパワーで押し倒そうとするということです。

効率のよい方法論などを模索すること無く、ひとまず力任せにやっていればいいという怠慢であり、売上にならないのに飛び込み訪問の件数を自慢するようなものです。

それには「奮闘している姿というものはかっこいいのではないか?」という自惚れのようなものもあります。

「誰かに見られていて欲しい」という野心を含めて「誰かに見られていないだろうか?」ということを気にしていたりします。

しかし組織形成や他人からの評価で言えば、それを信じている人が多いので、結果的に評価が集まったりします。

特にそれが難関であればあるほど、苦しみが多いほど美化されていきます。

そういうわけで経営者インタビューみたいなものでも、「さぞご苦労があったことでしょう」というような切り口ばかりになります。

神秘的に神格化

自己洗脳されたような人はそのような苦行のカッコよさを全面に押し出して、自惚れすら気づかず自らに陶酔し、本人も本人のアイツに騙されているので、妙に説得力があったりします。

理性が働いている時は、どのような利点があって、どのようなデメリットがあるかも客観的に見ることができます。

自己陶酔している人は、「絶対にいいんですよ!」と、疑いなく人に説いたりします。落ち着いて客観視すれば、そこまで熱は入りません。

しかし、聞く側は、普段そこまで熱が入らないので、「自分なら疑いがあればここまで熱くなれない。それだけ疑いなく熱く語るなら」と感化されたりします。

そのような具合で、熱く語りつつ人から離れれれば神秘的に映ります。

世間は考えること無く感情で動いていますから、神秘的に神格化されれば扇動するのはたやすいでしょう。

離れて生き、そして信じる 曙光 325

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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