限界を超えるための非合理性

「自分の限界を超える」

そんなことを意図することが結構ありますが、実際に限界を超えるためには合理性が生み出す柵を突破する「非合理性」が必要になります。

物事が合理的になっていけば行くほど、通常その概念のごとく理に適ったように物事が進んでいくと考えられますが、その一方で行動も情報も内部循環する形となり、鬱屈した精神を生み出していったりもします。

現状の中で「合理的に最適化」

「自分に最適」ということは、今の自分の内側、その後の自分から見れば「まだまだ小さい」とも言える「器」の中で最適というだけであって、その中でいかに合理的に最適化をしたところで、文字通り小さな器の中でぐるぐると回っているだけになってしまいます。

「一気に金持ちに、一気に成功者に(笑)」とか、「一気にモテモテに」とか、「一気に幸せに」ということを夢見ているにも関わらず、あくまで現状の自分はそのままで、外からやって来る形で極端な変化がないかを妄想しているに過ぎません。

時間・エネルギー的余白を作り出すことには貢献しますが、合理性、合理的な検討というのは、あくまで現状維持、保存のためにあるものです。

限界を超えるための強烈な動機

合理性の中で現状の自分はそのままという保存を意図しながら、一方で外から「自分に都合の良い出来事」がやって来ないかを夢見ているという感じですが、自分の限界を超え「新しい景色」を生み出すような出来事というものは、概ね非合理性によって「合理性が生み出した限界」を超えることによってしかもたらされないというような構造になっています。

そんな感じで自分の限界を超えるためには、四の五の言わずに突き進めるような、自分ですら止められないような強烈な動機が必要になります。

普通に表面上の理性で検討すると馬鹿らしいと思えるようなことが、自分の限界を超えさせてくれるわけですが、そのような「非合理性」は非合理的なので、「こうしよう」と思い込もうとしても思い込めるものではありません。本音としてそのような動機が生まれていなければならないという感じになります。

合理性の柵を切る瞬間

何かしら「それまでの自分の限界を超えることができた」と思えるような瞬間というものは、だいたい合理性の柵を切ることができた瞬間です。

「思いっきり」ということで「思いを切る」瞬間です。

何かをやろうと思った時、それがそれまでの限界を超えるものであるのであれば、たいていは未経験のことに手を出さざるを得ない状況が目の前にやってきます。

未経験のことなので、あれこれと不安材料が見えてきます。

しかしながら、検討だけしている間は物事は進みません。

そんな時には、ひとまず一歩を踏み出すと何かの結果が返ってきます。しかしその一歩がなかなか出ません。

こんな時、ひとつの解決策としては、「考えないで進む」というようなことになりますが、本来最も理想的であるのは、その考えずに進むということを自動的に行えるような状態になることです。

そのためには、強烈な動機が必要になります。

強い意図が思いを勝手に切ってくれる

進みたい、手に入れたい、成し遂げたいという強い意図が、思いを勝手に切ってくれるというのが最も自然です。

強烈な動機があればそれらは自動的に発生します。

ただ、現状から推論していって合理的に検討したような動機は、「思い込もうとしている動機」であり、本質的な動機ではありません。

あれこれ不安に思ってしまう気持ちを「切ろう」と思っても、普段の「意志の力」ではなかなか切れません。

なぜなら「そうなったらいいなぁ」程度の意志であり、また、現状の視野により、様々な抵抗感が潜んでいるからです。進む力は弱く、ブレーキは強いというような状況にあるからです。

強烈な動機がやってくる時

強烈な動機というものは、いくつかのパターンでやってきます。

気質的に欲が強いか、怒りが強いかというようなものによってもパターンは異なってきます。

細かく分類していくこともできますが、ひとつは、どうしても手に入れたいというような強い気持ち、もうひとつは、どうしても消し去りたいというような強い気持ちです。

一応共に「スッキリしたい」というような気持ちが潜んでいたりします。そして現状に不快感や違和感を感じたりもします。

僕の場合は、欲が弱く怒りが非常に強いので「怒りの解消」が基本形となっていました。

10代の終わりからたくさん本を読みましたが、この行動の手前にあった動機は「社会に出るにあたって本を読んでおいたほうがいいだろう」といった程度の軽いものではありませんでした。

ここでは割愛しますが、その当時の動機としては、悲しみ、怒り、混乱の解消でした。それは明るいものではありませんでしたがものすごい原動力にはなりました。

非合理性が含まれる動機

また、「どうしてもあの子とお近づきになりたい」というものも強烈な動機です。男性であれば9割位が○玉の都合ですが、動機としては強烈です。

客観的に見ると、そのために突き進むというのはかなり非合理的です。本能を外して理性だけで考えれば、男女がくっつくことは非合理的要素でいっぱいです。

特に資産面で考えたり仕事や勉学等々何かに集中するという面で考えればデメリットだらけに見えます。

しかしながら、相手がいないと見えないものや経験できないこともたくさんあります。

なので総合的に考えると非合理的ではないのですが、社会的成功のようなものだけを見ている時には、その衝動は非合理的なものに見えます。

ただ、その非合理性を帯びた衝動が、次の異なる景色を見せてくれる種となりえます。それを合理的に評価しようとすると「非合理的」となり却下対象になります。

10代後半に僕に生じた「怒りの解消」のような動機も「スマートな社会人」から見れば「そんなことはどうでもいいだろう」と評価されるようなものです。

しかし中長期的に見ると無駄な衝動であったとは思いません。そうした一見非合理的な衝動は、短期的な視野、狭い視野で評価することはできません。

途中で何かしらの苦しさが合ったとしても、より高みにたどり着くため、何かの本質を見るためのプロセスであったと後で評価するような出来事である可能性もあるからです。

違和感程度がちょうどいい

さて、限界を超える前に生じる現状の不快感ですが、できれば違和感程度の不快感くらいで済ませたいものです。

基本的に強烈な動機というものは、「この先の未来に良い状態になっている」ということを期待して起こるものとなっています。欲の解消、怒りの解消共に未来のスッキリを目指しているというような感じです。

その「スッキリ」というものなのか何なのかはわかりませんが、仮にそれが現状の延長で、現状を変える必要のないものであるのならば限界を突破するような動機は発生しません。

「今よりちょっと快適」くらいなのであれば、家電を買う程度で済むからです。

言葉の操作で起こる継続的な動機

強烈な動機は、エピソードから生じることもありますが、言葉の操作だけでも継続的な動機を作ることができます。

気分・感情の類いや強い思いは、簡単に操作することができませんが、言葉を操作することは行動としては簡単にできます。

気分はどうあれ、行動として「書いてあるものを読み上げる」ということ等々は簡単にできるからです。

ドカンとしたようなエネルギーがいきなりやってくるわけではありませんが、言葉を利用することで、落ち着いた継続的な動機が徐々に高まっていきます。

臨界点に達した時、勝手に思いは切れ、勝手に物事が動き出したりします。

ただ、現状と未来のイメージにギャップがあればあるほどエネルギーは高まりますが、一応不快感は募ります。

不快感が生じたりはするのですが、工夫次第で違和感程度に収めることもできます。

「何言ってんのこいつ?ああきっとこうなんだろう」

そのコツのようなものについてですが、基本形は「何言ってんのこいつ?ああきっとこうなんだろう」というような条件反射です。

客観的には非合理性を帯びているような意図を持った時、現状の自分がなす「検討」や現状周りにいる人達からの声によって、意図が否定されてしまうときがあります。

「無視しなさい」

というのは簡単ですが、そうした意見のほうが合理的なので、どうしても気持ちは引き下げられてしまいます。

そんな時はまず、「何言ってんのこいつ?」という言葉を間髪入れずに頭の中でつぶやきます。

そして二言目には、「ああきっとこうなんだろう」とつぶやきます。

すると、なぜそうした合理性を帯びた意見で、意図を妨害しようとしているのかが見えてきます。

一例となりますが、例えば、「この人は、勉強ができることを評価されてきて、それが嬉しくてそれに従ってきた。そしてある程度評価されてはきたが、イマイチ自分が思っている以上には周りが評価してくれない。だからここで、自尊心を高めようとしているのだ。だから、自分の意図とは関係がない」というようなものが見えてきます。

まあそれを実際に相手に伝える必要はありませんが、もし相手の意見に不快感が生ずるのであれば、自分の意図の妨害を阻止するために間髪入れずに、頭の中では切り返すというような工夫が必要となってくるでしょう。

そうしていると「見たいと思った景色を見に行くのに、賛成票などはいらない」ということが見えてきます。

Category:miscellaneous notes 雑記

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ