鈍い人たちの言動に直接反応せず、自らの洞察力を活かす

「鈍い人たちの言動に直接反応せず、自らの洞察力を活かす」ということで、世の中にいる鈍感な人たち、図太い人たちなど、いわゆる「気が回らない人たち」に対して辟易するのをやめて、そうした人たちの気の使えなさを見抜ける自分の洞察力を活かしていきましょうというようなことについて触れていきます。

以前、鬱になる人は繊細で頭が良いというようなことを書いたことがありましたが、それは適当に言ったわけではありません。

論理矛盾に気付く能力や共感力があるからこそ、鈍い人たちの言動のおかしさやひどさ、そして社会的矛盾なんかに気づいて葛藤が生まれ、精神が辟易するということがよく起こるからです。

しかし、うつになってしまってからは、疑心暗鬼のほうが加速します。

それは一方で、精神をより悪い方向に導きますが、実はその裏でさらなる洞察力を向上させているという面も持っています。

というわけなので、どうせならそんな洞察力を活かしてみましょうということについて触れていきます。

何なのこいつ?

そう言えば最近、営業先にて面白いことがありました。

訪問直後に奥に通され(この段階では大丈夫でした)、いざ面談をする相手と対面したのですが、その段階で既にその人は社内の業務連絡の電話のようなものをしていました。

そして、僕の顔を確認してから5分以上電話で話し続けて、僕は立ちっぱなしという感じです。

名刺の交換ですら目が合ってから5分以上経過しているということになりますが、それよりも面白かったのがそうして初対面の人を待たせておきながら、名刺交換の際はマナーの教科書に載っているレベルで丁寧だったということです。

こんな事は初めてでした。

一応第一声は、

「すいません」

だったのですが、

「ちらかってて。年末で忙しかったんで。すいません」

という感じでした。

もちろん心の奥では爆笑したのですが、その笑いのエネルギーを笑顔に変えておきました。

まあロクな会社ではないだろうということで取引はしませんが、僕としては面白かったので「まあせっかく時間も使ったことだし、どうせなら一生話のネタにしてやる」と思ってさらに心の奥を覗いてやろうと思いしばらく話をしてみました。

内容としては想像通りでしたが、その人も一応社会人として成り立っていたりするのです。まだ若い人でしたが、それで既に推定25年から30年くらいは生きてこれているという感じです。

おそらく悪気はないと思うので「反省する動機がない」という感じになりますが、それでも今までその人と関わってきた人たちもいたはずです。呆れてなのか何なのかはわかりませんが、誰も触れてこなかったのでしょう。ということで、その人の中では、おそらくその対応が普通なのです。

そんな感じでその人でも「社会でやっていけている」ということになるので、おそらくこの手の人達が、故意ではないものの意図せず繊細な人たちを踏みにじっているのだと思います。

ただ、その場で一瞬不快な思いをしても「例えとして使いやすいし、こうやって語るネタになったのだから、これは面白いことなのだ」と思えればそれで良いのではないでしょうか?

無駄に立っていた5分以上の間にしても

「爆笑のための前フリだったのだ」

という感じです。

ということをお伝えする例えにすら貢献してくれたその人に感謝しています。笑わせてももらいましたしね。

言葉選びで見える「視点」と繊細さ

といきなり関係なさそうな話をしてしまいましたが、本題はそこではありません。

少し前になりますが、ある記事で「うつがもたらす社会的コスト」とか「メンタルヘルスにかかる社会のコスト」というようなフレーズを使っている人たちがいました。

そうしたところから「やはり彼らが重視しているのは各々の幸せではなく『生産性』なのだ」ということが垣間見れます。たまにふれていますが、マインドフルネスなどという言葉を使い、社会的な生産性向上のメリットばかりを押し出している人たちも同じような発想です。

どれだけ儲かるかとか、全体の利益とかそうしたことばかりに目を向けているという感じになります。

まあ別にそうしたコストを算出してもらうのはいいですが、「誤解を生まないように気を回らせることはできないのかなぁ?」と思うことがあります。

おそらくそうしたことを言っている人たちも、「社会に事実を突きつけてより良い社会になるように」といった感じで、ある意味善意でやっていたりする面もあるのでしょうが、その文面を読む多種多様な人たちのことを想像はできないのかなぁ、ということを思うという感じです。

それを持って説得しようという矛先はおそらく行政を筆頭とした組織、とりわけ権限のある上層部の人達くらいだと思いますが、例えば、実際にうつ状態にある人とか、うつでなくとも精神疾患にある人達がそのフレーズを見ると何を思うのかということを考えられないのでしょうか?

「うつがもたらす社会的コスト」なんてなフレーズを見てしまうと、「そうか、自分はみんなに迷惑をかけているんだ」とか「生きているだけで社会に損失を与えているんだ」というようなことを思ってしまうかもしれません。

解釈可能性の一つとして「社会的コストがかかっているから迷惑しているんだ」というふうに読み取れなくもないということになります。

「早く治さないとみんなに迷惑をかけるんだ」とか、「生きている価値がないだけじゃなく、マイナスなんだ」ということすら解釈可能性としては想起されてしまいます。

そんな中、疑心暗鬼の最中にある人達が読んだ時に、どう思うかということを想像もできないような人たちが、心を語るなと言うことを思ったりします。

ここで強調していっておきますが、社会のほうが「その人」より重要だというようなことはありえません

その人個人の方が社会よりも大切であり、社会的コストなどその個人の人生に関係など無いのです。

それは個人の課題ではなく、国家や地域、企業など、そしてそれらにおいて権限を持たされている人たちの課題であり、ある意味被害者である個人が考えるようなことではありません。

というようなことを、その文に添えることくらいできなかったのでしょうか?

ということを思います。

つまり、「気の回らない鈍い人たち」は所詮そうしたことすら洞察することができないほどの思考力しか持っていないということです。

「そうだ。そうやって社会にコストをかけさせてやる。お前らが作ったこの腐った社会に少しでも報復するためにな」

ということすら考えてしまう人もいるでしょう。

そういう可能性が全然見えてないんですよ。

そんな洞察力は財産になる

ということで、仮に「うつがもたらす社会的コスト」というようなテーマの記事なんかを読んで、「生きているだけで社会に迷惑をかけているんだ」なんてなことを思ってしまった人がいたとすれば、その人は「そんなコストの計算をしている人よりも自分は洞察力が優れている」と自分を評価してみて下さい。

「その人には見えなかった解釈可能性の一つを自分は発見することができた」

という感じです。

ただ、そんな感じで人には見えない解釈の仕方を発見できたのなら「もしかすると、他にも解釈の仕方はあるのかもしれない」ということも思ってみて下さい。

社会的コストがあなたの人生に関係がないように、あなたの人生は社会には関係がないという感じで考えてみてもいいでしょう。

そうなると「どうあれば自分は安らかでいられるだろう?」ということの本質が見えてくるようになるかもしれません。

毎度毎度になりますが、僕は中学生の時に、先生が「母の日は何かプレゼントを贈りましたか?おかあさんに感謝してますか?」ということを授業の始めにクラス全員に向かって言ってきた時に「おかあさんと一緒に暮らしていないやつもいるのに、何でそんなこと言えんの?」ということを思い、実際に先生に言ったことがあります(覚えやすい誕生日)。

そんな感じで「気の回らない人」は世の中にたくさんいます。

しかし、そうした人たちに土足で踏み込まれ、それを受け入れているうつ状態の人たちは、元々繊細でより細かいところまで見抜けるような人なのだから、その感性と洞察力を逆に活かしてみてください。

例えば「もうすぐ夏。ぽっこりお腹は嫌ですよね~。誰かに見られたらと思うと本当に嫌になります」などと書いてある文があったとしたら、

「あなたはそう思うということはわかった」

とか

「お前がダイエット商品を売ろうとしているということはわかった」

という感じで、ただ論理だけでそれを捉えてみて下さい。

「そうか。こうやって商売目的で書かれたことに世間は反応して、こうした観念を植え付けられていってるのか」

という感じで捉えていっても良いでしょう。

「でも、それが社会に蔓延すると、『潰れる』という噂が広まって、本当に潰れてしまった金融機関があるように、噂が本当になってしまうようなこともあるんだろうなぁ」

という感じで考えていくと、社会というものがいかに朧気であり、社会的な評価というものなどいかに取るに足らないものであるのかが見えてくるはずです。

そしてその上で、先程の「うつがもたらす社会的コスト」というようなことを言っている人たちのことを考えてみましょう。

「ああ、この人達はおそらくうつ状態の人たちを少しでも救うべく、国とかを説得したくてこういうデータを集めてこんな計算をしたんだろうな。『社会として損失ですよ』ということを『気の回らない人たち』に向けて言いたいんだろうな」

というようなことも考えられるようになるはずです。

そして「その論文かなんかは、気の回らない人たちに向けて書いたものだから、そうした解釈可能性については触れていなかったのかもしれないな」とか

「その学者自体が気が回らない人なのかもしれないけど、もしかすると実は論文には書いてあって、でもそれを読んだ気の回らないライターが省略したのかもしれない」とか

「いくら大手の出版社とはいえ、広告収入が目的で釣りのようなことをしているライターがそこまで考えられるわけもないか」

ということも考えられるようになるかもしれません。

そんな感じでいろいろな可能性を検討できるようになると、「自分はみんなに迷惑をかけているんだ」というたった一つの解釈可能性に執着しているのがバカらしくなってくるでしょう。

もし同じようなことで思考がループしてしまうなら、いろいろな可能性を検討してみてください。

鈍い人たちに無駄に反応せず

「そんな人達の言葉や行動の裏にはおそらくこうした視点があるんだろうな。

こんな感じで育ってきて、こういうことを大切だと思っていて、こういう目線で物事を判定しているんだろうな。

こういう視点からは物事が見えているけど、ああいう視点では見えていないからそんな行動が取れるんだろうな。

この人はおそらく一生こんな感じで生きていくんだろうなぁ」

という感じで、自らの洞察力を活かしてみてください。

実質的にはどうなるのか?を考える

で、「この人はそんな感じで考えているということはわかった。

でも、私がそれに合わせる必要はないんだ」

という感じでいろいろと思い浮かべてみましょう。

「この人の意見に合わせなかったとしよう。

実質的にはどうなるのか?

嫌われて縁が切れる。

まあそれは問題がないだろう。

鬱陶しいやつだと思われる。

思われるだけだろう。特に問題にはならない。

キレて殴ってくるかもしれない。

それはそれで警察に突き出して、民事で賠償請求でいいだろう。犯罪者にしてやればいいんだ。

せっかくここまで進んだ交渉が台無しになる。

うーん。まあお金は欲しいし、時間を無駄にしたとは思いたくないけど、まあいいか。元々あってないようなものだし。また他のいいお客見つけりゃそれでいいし。

新しいお客見つけるのはちょっと面倒くさいけど、まあこいつと関わるよりはマシかな」

という感じです。

嫌なヤツが気づかせてくれること

でもそれを考えると逆にいい人のことはもっとありがたく思えてくるはずです。

「あの人のこと特になんとも思ってなかったけど。すごくいい人なんだな。こいつのおかげでよくわかったわ」

という感じになってきます。

で、「こんなやつと関わってる間があるなら、いい人探そ。んで、今までなんとも思ってなかった『いい人たち』にもっとサービスしとこ」

とか

「これで素直に『ありがとうございます』が言えるようになったわ。今まで適当に渋々言ってた感があるけど、心の底からありがたく思うわ。そう考えると、こいつに出会えてよかったな」

というようなことも思い浮かんだりするはずです。

その恩恵を享受するのは他の何でもないこの心です。

この心が最優先

この心に映るものが美しく安らかであることが最も大切なことであり、社会的な物事は二の次です。それが二者間であれ、国家などの大きな枠組みであれ、誰かと誰かの関係で成り立っている「社会」などこの意識が作り出した朧気な幻想にしかすぎません。

「みんなを幸せにするほうが正しい」とか「最も経済的であるべきだ」というのは社会的な領域だけの話であって、この心の問題ではありません。

それは社会に関わる人達が社会において語り合う領域であり、とりわけ社会の中で権限のある人が考える課題です。

どうせ社会がいかに変わろうが、その様子を受け取るのはこの心です。その心に映るものが既に暗く冷たいものであるのなら、社会がどう変化しようが土台から崩れてしまいます。

だから何事もこの心が最優先になります。

「この心が安らかであるためには、どうあるべきか」

それを見事な洞察力で見抜いてください。

「何で気の回らない人鈍い人たちに合わせようとしてるんだ、この意識は…」

なんてな感じで検討してみてください。

「あ、そんな人達にでも合わせなければならない、というふうに考えるようにいろいろな人から仕組まれていたのかもしれない」

という感じで洞察していきましょう。

「ん?どこから?何でそんな事になったんだろう?」

そんな感じで進めていきましょう。

「ん?んんん?」

という瞬間がやってくるかもしれません。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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