道徳に対するドイツ人の態度

ほかならぬこの民族に満足を与えるのは、いかなる道徳であろうか?たしかにこの民族は、その心から服従癖が道徳の中で理想化されてあらわれることをまず望むであろう。「人間は、無条件的に服従することの出来る何ものかを持たなければならない。」― これがドイツ的な感覚であり、ドイツ的な首尾一貫性である。人はすべてのドイツの道徳学的の根底においてこれに出会う。 曙光 207 中腹 一部抜粋

なんだかんだで、いまだに明晰夢のようなものをよく見ます。寝る前や起きる直前も多いですが、おそらくその間であろう時間帯にもよく見ます。

つい先日、「会う人全員に一日の行動を指示してあげなければ、世界が動かない」というような感じの夢を見ました。

この世界というものも、僕の認識範囲が全てであり、僕の世界、僕の宇宙の中では、僕が今体感していることだけが全てであり、客観的証明の必要なしに認知できる世界ということになります。

で、哲学的にはそんな世界というのが本当のところですが、それを前提として今回の夢の中では、僕の目の前に現れた人々に、一日の行動を指示してあげないと、その人は止まったままになってしまう、という世界観が設定されていました。

で、起きがけの時になりますが、思考上では僕の代わりに指示を伝えに行ってくれる人を数人用意するという感じで事を運ぼうとしていたのですが、「言語で示さなくてもよい」というようなことがふと浮かんだのです。

普通は「一日の行動」というようなものを紙でリスト化して示すように、言葉を通じて伝えようとするものの、例えば動画ファイルのように、一日の行動のデータのフローが詰まっている情報の塊をインターネット通信のように、しかも電波のように送るという方法を思いつきました(夢の中ででの話ですよ)。

「変な夢だなぁ」

というようなことを思いましたが、現実もあまり変わりないというようなことも同時に思ったりしました。

さて、それはそれで夢の思い出であり、あまり関係なさどうですが、引用中にある「人間は、無条件的に服従することの出来る何ものかを持たなければならない」ということに関連するような事柄であると勝手に思っています。

夢の中での「解決策」については、書きましたが、その前提である「僕が指示を出さないと世界が動かない」というところについては触れていません。

なぜ、そのような前提になっていたのでしょうか?

それは、何かを示唆するもののはずです。

しかしながら、そうした前提に対して言語的理由を考えると、引用のようなオチになってしまいます。

つまり、そうしたところを「ただそうであるだけ」とせずに思考で考えるからこそ、「自分たちの行動の前提には神の意志がある」ということになるということです。

そして神の意志によって生かされているのだから、神の意志を捉えそれに沿うように、という発想が出てくるということになりましょう。

「何か目的や意味があるはずだ」と思えば、その奥に「誰かの意志」と言うものが設定されていきます。

しかしそれを究極に突き詰めると、具体的な事象の目的や意志を定めた存在自体の動機の発生源が不明瞭になります。

つまり、「なぜその存在はそのような意志を持っているのか?」ということが説明できなくなります。

という論理の行き詰まりに早く行き着いた方が賢明です。

道徳に対するドイツ人の態度 曙光 207

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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