趣味や職業と生き物の命と不殺生

「趣味や職業と生き物の命と不殺生」ということで、生き物の命と人が生きていく上での殺生について触れていきます。

たくさんの数のご連絡の中から「趣味の釣り」や職業として殺生を避けられない職業についてのご質問を受けました。

趣味としての釣りにおいては、海の生き物に対する殺生が関連し、ガーデニングにおいてもいわゆる雑草取りや害虫駆除という殺生が関連してきます。

職業としては、畜産や漁業・狩猟をはじめ、農業や造園であっても先のガーデニングと同様の殺生が関連してきますし、清掃や建築関連であっても多少は関連してきます。

究極的には医療行為ですら殺菌等の行為によって、目に見えない命に対する殺生を行うことになります。調理において加熱することも同様です。

不殺生戒が語られる時、植物は除外するとか細菌や真菌などは除外するということを「勝手」に決めています。

「おいおい、ごまかすなよ」という感じです。

そして「托鉢を受けて自分は殺さないようにしていても、結局他人にやらせているだけじゃないか」と思ったりもするはずです。

それはズルいと思います。

戦争を仕掛け、戦場の兵士に人殺しをさせておいて、「自分は人を殺したことはない」とふんぞり返っているお偉いさんと同じではないかということになります。

「勝手に基準を決めて、他人に殺生の苦しみを肩代わりさせて、何を偉そうにしているのか」とすら思います。

「君たちが余裕をぶっこいていられるのは、他人が世話をしているからじゃないか」ということです。

なのでそうした感じで義務的に、絶対的な倫理として、善悪として語られていることについては、譫言くらいに思っていただくほうがいいと思います。

まあそれも回りに回って、最終的には合理性を帯びています。しかし何故そうした托鉢形式になったのかの戒律としての合理性は合理性で別領域であり、それよりもまず、不殺生戒ゆえに苦しみを感じる人がいるということを念頭に置いて、それに対する回答を示しておくべきだと思っています。

でないと「世間で言う汚い部分を人にやらせている人たちが、ふんぞり返って偉そうに不殺生戒を説き、殺生を行うものを悪人であるかのように裁いている」ということになってしまいます。

だから、それについて示すからには、それに関連するものに対する最大限の回答を示す方が良いでしょう。

基本は「快楽や怒りの解消を発端とする感情のために他の生命を利用するな」という感じであり、「感情を根拠として生き物を殺すことを安穏の条件とするな」ということであり、「慈悲の状態こそが、他の生き物を殺してでも手に入れたかった境地」であるということを感じてくださいということになります。

こうした不殺生戒の概要については、「不殺生戒と人を殺してはいけない理由」をご参照ください。

何のために殺生を行うのか?

何のために殺生を行うのかという動機の部分が最も重要になります。

極めて厳密に考えれば、今ここで「この私」が生きている、生命活動を行っているという時点で、細菌やウイルスを死滅させています。その点については「あの日のおにぎり Another Story」で触れていました。

でもそれについても、この体自体が両親から生まれたものであり、社会の中では名称を持った「この私」ですが、その構造を作ったのは「私」ではありません。

同様に空腹についても、食事についてもこの体を維持すべく、生命活動を行うべくという感じになっています。その動機は生存本能から起こっていることであり、それに対応しないと必ず苦しさがやってきます。

だから苦しみの解消という意味での感情の解消ではありますが、発端はこの自分の命がスタートした時に「自分以外のものから」形成されたことであり論理を超えて起こる苦しみです。一切行苦であり、四苦八苦の生苦にあたります。だから生きることは素晴らしいと言うよりも苦しみが基本です。

なので、その範疇にあることに対応することは、この体に関するいわば「他者が形成したもの」に対する、自然な対応になります。

「食べずに死ぬ」ということは、この生命を蔑ろにすることになります。また細菌やウイルスに感染しているのに対応しないということも同様です。他の生命は殺生しなくとも、この生命を殺生に向かわせています。だから二律背反です。

よって、生命維持に関することは、意志をもって行ったことであるとしても、対象としないことが妥当です。二律背反であるため語りえません。

社会学的な自由意志からみる行為の選択

ただ、社会学的な自由意志の範疇で考えると、「複数の選択肢がある中で選択したこと」について責任が生じるように、複数の選択肢がある中為したことについては検討することができます。

そこで、行為の動機を検討した場合「趣味の釣り」あたりから怪しくなってきます。

「楽しみたい」という己の快楽や「暇だ」という感情の解消、他の人とのコミュニケーションなど、そうした目的が中心となり、他の生命を弄ぶとすればそれは不殺生戒で戒められている範囲の事柄になります。

ただ少なくとも、「他の生命を弄んで楽しむ」という意図ではなく、生命維持の要素があるのであれば、想像にたやすくその分だけマシです。

例えば釣りという行為を考えた場合、趣味で行い、釣った魚をないがしろにするのであれば、それは悪意になりますが、食するのであればマシです。そして、仮に無人島で餓死寸前であれば、釣りという行為を非難するような要素はありません。

「どういった目的をもってその行為をなすのか?」

というところが重要です。

「自分が楽しみたい」からと虫を捕まえることは戒められる事柄です。また「それで人を楽しませて生計を立てる」ということを意図することも同様です。

畜産や漁などに関しては、生命維持の要素が強くあります。

そして、他人が目を背けていることを、引き受けて為している、だからそれは誇りにするべきことです。

しかし、生命を弄ぶという要素があるものは全て邪念のある職業です。

人間の楽しみのため、快楽のため、暇つぶしのため、などという理由であれば、それは不殺生戒が最も戒める対象となります。

以前にどこかで書きましたが、自分の大切な人が、「遊びや狂気のために無駄に虐殺される」か「餓死を回避するために犠牲になる」という局面を比較した場合、感情のあり方が違うはずです。

元々アヒンサーという概念は「不傷害」という概念でした。

「体をもって、言葉をもって、そして意識の中ですら相手を傷つけることを欲するな」

ということです。

自然界の生き物はそのほとんどが他の生命の犠牲の上で成り立っています。そしてその理由は、概ね生命維持のためだけです。

他の生命を弄び、感情的な理由で「傷つけること」のみを欲する生き物はいません。

この心に映るもの

そのような感じなので、感情のために「傷つけること」「苦しめること」「無駄に犠牲になること」を欲するということは、それをしないと、この心が満たされないという条件となるため、結果的にこの心を煩悩で満たしてしまうことになります。

だから他の生命を含めて社会全体的な道徳のようなものを軸にして考えるのではなく、この心に映るものとして、「~しなければ落ち着かない」という条件を減らしていくという方向で検討してください。

もし生かすことができるのなら、生かしてあげてください。

逃がすことができるのなら逃してあげてください。

もし救うことができるのなら救ってあげてください。

可能な限りでかまいません。

いくら菜食主義だなんだと言ったところで、農作物が生産される、つまり植物が育つ過程では、殺生の要素が含まれている部分もあります。それを見ずして誇らしげに傲りにふけるのであれば、ただの愚者です。

いくら牛乳だけで生活しているとか果物だけで生活しているなどと言ったところで、煮沸すれば細菌は滅します。この生命が続いているだけで細菌もウイルスも死滅させています。

だから、そうした人たちの妄言は妄言として扱ってください。

そして目の前の命ですら他の生命の犠牲の上で今生きています。

殺生が行われる時も、その生命の生存本能としては生き延びるように意図を発します。

でもその生命すらも、かつて同じように「死にたくない」と思っていた他の生命を犠牲にしたのです。

その生命もかつてそうしたように、この私も「生存本能からの苦しみを与えられているからであって、傷つける意図はない」と思ってもらえるようにしてください。

その運命としてお互いに恨むこと無くです。

最後に僕が経験し僕が感じたことについて触れていきます。

刺激が強いので、他のページに転移していただいても結構です。


命が終わる時

僕は2010年にネパールに行きました。

そして、「カーニバル」で、ほんの少しだけ触れていましたが、カーリー祭という祭りに行きました。

その祭りは、ヒンドゥー教における血を好むカーリーという女神に生贄を捧げる祭りでした。

人の行列の合間合間に、山羊と鶏がいました。

それを育てた人が、連れてきているという感じです。

僕もその行列に並んでいて、隣には山羊がいました。

そして祭壇の方まで行った時、山羊が少し前に進められて、執行担当の人が持ったククリという短刀で喉元を切られました。

その山羊を連れてきていた人に抱きかかえられながらです。

動脈が切られたということなのか、ものすごい血しぶきが上がり、数秒後から十数秒くらいで山羊は抱きかかえられながらもその場に倒れました。

その瞬間を一部始終「一生忘れるまい」と思って見ていました。

「どうしてこんなことができるんだ?」

と思いました。それは人間に対してではなく、山羊に対してです。

首を短刀で切られ、命が果てるまでの間、山羊を抱えていた人、つまり育て主の方に愛のある眼差しを送っていました。

単純には殺されているはずです。そしてこの場所には殺されに来たのです。

育て主は、その山羊をこの場所で死ぬためだけに連れてきているわけです。

その山羊の表情は、まるで感謝をするようにすら見えました。

そして後ろを振り返ると、やはりたくさんの山羊と鶏がいます。

ということで、そんな今殺生が行われたばかりの山羊の姿を後続する山羊たちも見ていたということです。

でも、微動だにせず、それら山羊たちを連れている人と一緒に幸せそうにしています。

「どうしてそんな感じでいられるんだ?」

「なぜ、暴れも逃げもせずにいられるんだ?」

振り返ると抱きかかえられながら倒れて命が終わる寸前、まさに「息が絶える」時、とても幸せそうに育て主と見つめ合っていました。

この時、伝承にある「うさぎが火に飛び込む」という話、つまりジャータカ物語の兎の話を思い出しました。

全ての生き物は闘争状態にあり、食物連鎖はまさに弱肉強食の世界であり、それは力の強さと弱さだけの問題であり、弱いものは悔しみながらも負けていくのだと思っていたので、ジャータカにおけるうさぎなど単なる創作の比喩表現であると思っていました。

しかしその山羊の姿を見て「でも、もしかすると、脚色はあっても全くの創作ではないのではないか?」ということすら思いました。

「なぜそんなことができるんだ?」

という思いでいっぱいでした。

その少しあと、その山羊は完全に息絶え、別の人に連れて行かれました。

山羊を抱えていた人にお願いして山羊を触らせてもらいました。

まだ温かく、先程まで生きていたことが手から伝わってきました。

しかし、後続の人達もいるということで、すぐにその場から離れなければならなかったという感じです。

次は解体です。

僕は全てから目を背けること無く、全てを見ておこうと思い、その解体場所まで行きました。

様々な刃物で切り刻まれ、かなり大きな鍋のようなものに短時間浸けられた後引き出されました。

そしてその場所にいる担当者が皮を剥いでいきました。

さらに細かく切り刻まれ、カレー鍋の中に入れられました。

少し前まで生きていた山羊は、カーリー祭で振る舞われる食べ物になりました。

僕はその全てを記憶に刻もうと山羊カレーをいただくことにしました。

そこには少し前まで隣りにいた山羊が入っています。

掌で体温を感じたその生命がです。

普段意識していないだけで、僕は昔からそれを繰り返しています。

そして、この時は「誰がそれをしてくれたのか」を確認することができましたが、普段もそれが見えないだけで、顔も知らない誰かがそれを為してくれているんだということを改めて感じました。

もちろん理屈の上では幼少期から知ってはいましたが、改めて目の前で体験すると、感じ方が強烈でした。

それでも僕はこの時常に冷静でした。

その冷静さが不思議なくらいでした。

それはもしかすると、その山羊が何かを教えてくれたのかもしれません。

不殺生戒と人を殺してはいけない理由

Category:質疑応答

「趣味や職業と生き物の命と不殺生」への2件のフィードバック

  1. ずっと昔、思い返せば、子供のころから殺生が気になりながら断続的に続けている趣味の釣りですが、小さい魚や、子持ちの魚は逃がす、子持ちの時期は釣らない、最近は、自分と家族が食べる以上の数は釣らないように心がけています。そして、釣った魚を食べた分、自分を支える他の生命を食べる量を減らせば、自分が生きるため以上には殺生していないとか、そんな屁理屈で自分を納得させようとしたりもします。しかし、自分自身の本能から出るものなのか、その五感から得られる刺激、駆け引きの妄想からか、釣り自体を楽しみ、わくわくしながらやっている自分がいます。最近、身の回りの出来事をきっかけに、全般的に薄れてしまった物や事に対する興味とは裏腹に、釣りに対する興味は、やり始めるとそれをしないと落ち着かない種類のもので、そこに、やはり後ろめたさを感じます。また、釣った魚を締めて、血抜きして、捌いてという一連の作業を自分自身がやるわけですが、死んだ魚と違って、自分が釣るまでは、元気に生きていた心をもった生き物の命を奪ったという感覚が強く出るときは、なんともいえない気分になる時もあります。そして、その後ろめたさの本当の源は、無駄な殺生をすれば、その災いが自分に降りかかってくる的なもので、生きとし生けるものに対する慈悲のような崇高なものからではない利己的な自我の衝動であることに気づいているが故に、余計に後ろめたさを感じる今日このごろです。

    1. 釣りに出向くという行動、そしてその動機は、環境要因から形成されたものであり、自我の形成において外界から勝手に形成されたものです。でもそこで得る楽しさというものはこの体としての本能的なものでもあるのでしょう。
      ただ一方で、後ろめたく感じるのも同様に、情報によって形成されたものに加え本能的なものも含まれています。

      量的・方法論的な検討は、意識の上で「考えること」であり、思考の領域です。なので、今起こっていないことに対する一種の妄想でもあります。

      諸行無常ゆえにその場その場に限って、関連思考を働かせずに動機の発生を観察し、いかに意志を確定すべきかというところだけを検討してみてください。

      過去のことは既に過去の記憶として、イメージとしての情報でしかありません。
      しかし、それが追々無意識から意識へと自動でやってくることになります。どのようなことであれ記憶が消せないのであれば、苦しみを起こす記憶は作らないに越したことはありません。

      ある行動を取るということは、それら無意識にある「材料」を増やしてしまうことになります。
      それによって記憶から起こる感情という苦しみが、制御不能な形で形成されてしまいます。
      だからなるべく「この心に映るもの」が苦しみとはならないように、動機を野放しにせずそれを観察してみてください。
      それでも記憶による苦しみが起こることもあります。
      それについてはアングリマーラと同様です。

      全くの自由意志で行ったことでないとしても、それら記憶はこの心には苦しみを与えます。
      自分に責任がないといえばないのですが、意識の領域関しては、誰かが責任をとってくれるという領域でもありませんし取りようもありません。

      しかし、空観で捉えれば、全てこの内側で起こっている現象であり、意識もその中の動機も記憶も感情も、ただこの内側で形成されたものにしかすぎません。
      なので、安らぎに何かの条件をつけてしまうこの意識を観察し、それらは形成されたものであり、生じたものは滅びる性質を持つことを明らかに観て、苦しみを映し出さないようにしてみてください。

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