高貴な人々の挙動は、彼らの身体の中で、絶えず力の意識が魅力的な演劇を演じていることの表現である。そこで、貴族的な風習の人間は、男性であれ女性であれ、さも疲れたようにして椅子に腰を下ろすことが嫌いである。 曙光 201 序
先日の投稿「貧困に耐える」で触れた貧乏マインドの反対にあるのがこうした貴族的な風習です。「さも疲れたようにして椅子に腰を下ろすことが嫌い」という感じです。
まあまた新約聖書マタイ6章的ですね。引用しておきましょう。
断食を人に見せようとする偽善者
「断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう」
現代ではあまり断食ということ自体がされていませんし、日本という土地柄そうした風習は特になく、本当に胃腸が悪い人くらいがするものですが、断食ような宗教文化のあるところでは、そうした行動が評価されます。
ということで、「断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくする」という感じのことが行われていたのでしょう。当時のその土地では最も例えやすいたとえだったのかも知れません。
これは端的に、「人に見せるために行い、憐れみを乞う」ということがいかに寒いか、ということです。
努力している人がかっこいい
世の中では「努力していること」をほめる風潮がありますが、そうしたことをしていると、努力しているところを人に見せてほめてもらおうとする人たちが出てきます。
「努力している人がかっこいい」
ということで、努力していることを人に見せ、モテようとする人たちもいます。一生懸命がカッコいいの世界です。
しかしそうしたことが寒いということは、イエス・キリストの時代から既に見抜かれています。
結局は自己都合なのだから「それがどうした」
人からの賞讃を得ようとしたところで、人から強制された嫌なことを踏ん張りながらやっているのも、自分がやりたくてやっているようなことも、結局は自己都合なのだからほめる必要はありません。
ここでも「それがどうした」と思うことです。必要以上に価値を与えてはいけません。
世間で評価されているようなことは意外とよくよく見ると、ただ本人がやりたいからやっているだけということが日常レベルでもよくあります。
ほめる必要はないですが、評価しても構いません。しかしながら、そうした評価を「求める」ということは、己の心を蝕むだけであり、他人の評価を生きがいの条件としているということになりますのであしからず。
貴族の将来 曙光 201
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