讃辞、つまり褒めの言葉には、皮肉に代表されるように同一コミュニティに属しているかというような確認の属性から、お世辞のように煽てて物買わせようというもの、ただの羨望からの賞賛といった具合に、ただ単には測れず、一律には論じ得ないという属性があります。
皮肉の中には、相手の反応で相手の教養高さを測るというものもありますが、タダ単なる攻撃の場合ももちろんあります。ほめる・ほめられるという関係で自分の力を誇示しようというケースもあります。
讃辞と皮肉
讃辞(さんじ)とは、その字面のごとく賞讃の「讃」であり辞典の「辞」であるため、褒め言葉です。
相手を褒め称えるような言葉が讃辞という感じになりますが、そうした賞讃自体は、絶対的尺度の賞讃と誰かとの比較の中での相対的な賞讃があります。
さて、京都においてはこうした讃辞を最大限に利用して皮肉がたくさん繰り広げられていますが、その本意としては「調子に乗ることは寒いよ」という意味であり、調子に乗ることが寒いことを既に悟っているかということを確認するために皮肉によるチェックを行っています。
つまり京都における皮肉は、相手を攻撃して自尊心を高めようとする行為というよりも、相手を直接傷つけずに諭すためとという目的もあるのです。
京都人の皮肉 「現代人の皮肉」
羨望と嫉妬と復讐心
讃辞を述べる場合、述べられる場合において、本当に褒めている場合でも要注意です。その言葉の裏には自分では気づかない復讐心が込められていることがあります。
羨望ひとつとっても、自分には手の届かない「自分にもあったらいいな」という、感情ですから、それが今現にはない、という認定でもあります。
「欲しいが自分にはない」ことの認定
嫉妬にまでなると、明らかにその「自分にはなくて相手にはある」という現象、事実の排除の欲求が起こっていますから、気づきやすいですが、羨望一つとっても、「欲しいが自分にはない」ことの認定という一つの因子を孕んでいます。
たとえば、相手のもっている「羨望の対象そのもの」でなくても、それと同等、もしくはそれを超えるものを手に入れたいという渇望を呼び起こすかもしれません。
己の心は、よくよく見張り、観察しておかないと、知らぬ間に暴走を始めます。
同一目線で比較できる場合
例えば、自分は男性で、相手は女性だったという場合には、「かわいいと言われる男性」と「かわいいと言われる女性」では性質が異なり、同じ目線での「比較」というものがあまりできない属性のものもありますが、同一目線で比較できる対象(仕事など)の場合は気をつけたほうがいいでしょう。
一種のルサンチマン
男女間だからといって、油断していると、ふとした賞賛の言葉の中に復讐心が込められていることがあります。つまりは一種のルサンチマンであり、皮肉で覆われた讃辞の中に解釈変更による復讐心があるかもしれません。
体育会系は「復讐心を力に変える」ということが好きですが、そんなものは愛のパワーには勝てません。
復讐心は、自分の心も相手の心もかき乱すものですから、復讐心を発見した時は、その心の動きを捉えて、早急に手放すのが賢明でしょう。
讃辞の中の復讐心 曙光 228
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