諸法無我

諸法無我(しょほうむが)について触れていきます。諸法無我あるいは諸法非我(しょほうひが)は、仏教用語にはなりますが、諸行無常と同じく単なる理(ことわり)を表すにしか過ぎません。

諸法無我についても仏教的な解説や哲学的なアプローチを行っていますが、仏教的な諸法無我の正確な説明、解説を示し、辞書的・教科書的に終わるつもりはありません。諸行無常(しょぎょうむじょう)と同様に、諸法無我という理へのラベリングから何かを掴み取っていただければという趣旨で書いていきます。

諸法無我は諸行無常と同様に、自分の主義によって変更することのできない理です。経典を根拠に盲目的に真理だと主張するような事柄ではありません。摩訶不思議なことでも何でもなく、誰でも理解できることですし、哲学的に見ても非常に論理的です。

ただ、諸法無我は、思考上の理解でもある程度理解できるはずですが、本質的な諸法無我は、体感領域による気付きでしか正確に掴み取ることはできないでしょう。ということで、諸法無我を捉えた時、思考の限界を超えることになります。

以下、この諸法無我について、「諸法無我と諸法非我」というニュアンスの違いについては時代背景が影響しているため若干は触れざるを得ないため、一応仏教用語として仏教特有の概念として言葉の意味を考えている部分もあります。しかし、基本的に宗教的、主義的なことをあまり議題に上げず進めていきます。言葉にとらわれず、学術的に正確な意味を捉えるのでもなく、諸法無我というこの当然の理を元に、何かを掴み取っていただければと思います。

諸法無我の概要

諸法無我(パーリ語:sabbe dhammā anattā)とは、全てはあらゆる因縁によって起こっており、その中で固定的な「我」というものは無いというような意味です(厳密には「我ならざるもの」)。しかし、その理の中には複数の意味が複合的に内包されています。諸法無我は、三宝印とか四法印とされるうちの一つとされています。

もちろん僕はパーリ語の専門家ではありませんが、まずは諸法無我に関するパーリ語と漢字表現の関係から見ていきましょう。

パーリ語の「sabbe dhammā anattā」を分解すると「sabbe」 は「一切の」、「dhammā」は「真理・法・理法」、「anattā」は「attā=我」を「an」で否定して「無我」です。

そういうわけで、sabbe dhammā anattā=諸法無我ということになります。

ただし若干注目すべきは、「我」と「私」の違いです。パーリ語で「私」は「ahaṃ」と表現されるようですので、「attā=我」のニュアンスは、一般的用法の「一人称としての私」というよりバラモン文化における「魂」や「真我」という表現のほうが近くなると考えられます。それを「an」で否定するという形です。否定するということで、「無」よりも「非」の方がニュアンス的には適していると考えられます。

ちなみに「dhammā」はダンマパダ(法句経)の「ダンマ」です。ダンマは概ね「法」や「真理」、「理法」と訳されています。pada(パダ)は「言葉」という意味であり、ダンマパダは、日本語の出版タイトルとして「真理のことば」と訳されたりしています。

さて、経典は口語表現であり会話文です。だから本来は厳密な定義をあまりせずに言葉にとらわれず、感じていくしかありません。

まずは「諸法無我」という言葉を構成するそれぞれの言葉を少し分解し、原始仏教経典など文献の中に登場する用語の他の使用法を捉えて見てみましょう。あくまで漢字に訳されている用語なので、それほど厳密に考える必要はありませんが、少なくとも訳者はなぜその漢字を当てはめたのかを経典での用法を頼りに少し紐解いていきましょう。

諸法

諸法の「諸」は「一切の」とか「あらゆる全ての」というような意味があります。「sabbe dhammā anattā」の「sabbe」 の部分です。

そして諸法の「法」は、いろいろな意味で使われる言葉ですが、「理」、「法則」というようなニュアンスで使用され、「揺らぐことのない真理」という感じで使われたりしています。「sabbe dhammā anattā」の「dhammā」の部分です。これは、真理や理法と訳されたりもします。

例えば「自灯明、法灯明」と表現される時の「法」は、そのような理を示しています。

そしてそうした「理」や「真理」は、胡散臭い宗教家や占い師が言うような「あなたにはまだ見えていない真実」というようなものではなく、「言われてみればそうだなぁ」といった感じで、聞いた人でもすぐに再現可能で確認可能な法則のことを示します。

「確認できるような法則を頼りにしなさい」

そのような感じで使われています。

諸法無我の諸法は「一切の事物」や「全ての物事」というふうにされている時もありますが、それならばどうして「色」という言葉ではなく「法」なのか、ということになります。

無我

次に無我ですが、「無」はもちろん「無い」ということ、そして「我」というのは「固定的な実体」、いわばアイツこと自我を意味します。我を我だと思うこと、我を固定的な存在だとすることを否定しているという感じです。「sabbe dhammā anattā」の「anattā」の部分であり「attā=我」を「an」で否定して「無我」です。

「主体・客体」の主体と言いたいところですが、そうした見方もニュアンス的には合っていますが、それはあくまで主体と客体という二元論化・相対化した上での主体となるため、厳密には「主体・客体」の主体ではありません。

しかし、厳密には諸法無我を示す際、無我と言うよりも「非我」の方が適訳です。それについては後述しましょう。

諸法無我が示す複数の意味

諸行無常と異なり諸法無我は「分かりにくい理」です。その理由の一つは、先に示したとおり用語の意味を追っていくにあたり、「法」が「一切の事象」とか、「全ての物事」などと解説されていたりするという点です。

最終的にはそれも含んでいるのですが、考えの最初で躓いてしまいます。ということで、諸法無我が示すものは一つではないという感じで考えていきましょう。

では、まず字面通りに捉えてみましょう。

「全ての法則に私という実体はない」

というあたりになりそうですが、もう少しツッコんで行きましょう。

「『私』が『考えた・思っている』『理』と『自然法則』には関係がない」

「息をしない主義」を採用したところで、人工呼吸などのよほどの細工をしない限り息をしなくて生きていられるわけがありません。

「万有引力を認めないから」と言って、空に浮くことができるわけでもないのです。

そして「他の空間では法則は変わる」とか何とか言ったところで、自分がいるのはそうした空間です。だから他の可能性があったとしても、今の現象は自分の思いで変更できるものではありません。

つまり、自分の立場、主義、考えなどで「真理」は揺るがすことができないということです。

そして、そうした主義を考える「自分」というものも、因縁によって生起しており、それは諸行無常ゆえに「実体がない」ということをも示しています。

なぜなら、自分が自分だと思っている「虚像の主体」は、その自分以外の物事との関係性の中で、「今、現象として起こっていること」にしか過ぎないからです。

例えば自分の考えや何かの行動の原因となる動機ひとつとっても、自分以外の要因が組み合わさって「そういった動機が発生している」という感じにしか過ぎないからです。そうした部分については「自由意志を哲学と社会学的帰責から紐解く」で触れていたので詳しくはそちらをご参照ください。その中でも触れていますが、この体も自分がゼロから生み出したわけではなく、考え方も他人を含めた外界から得てきたものです。

そしてそんな「自分」は、現在の因と縁によって起こっている現象にしか過ぎず、それ自体が諸行無常ゆえに常に変化しているため、「固定的な実体」としての「我」というものはどこにもないということを示しています。それが諸法無我です。

ここまで来てやっと、諸法無我が「一切の事物は我ならざるものである」とか「一切の物事は自己ならざるものである」ということの理解にたどり着くような感じです。

諸法無我と諸法非我

さて、この諸法無我の概念は「諸法無我」と呼ばれたり「諸法非我(しょほうひが)」と呼ばれたりします。諸行無常の時にも引用しましたが、諸法無我が登場する有名なものを再掲しておきます。

「『一切の事物は我ならざるものである』(諸法非我)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である」(ダンマパダ 279 中村 元 訳 岩波文庫)

この中では諸法無我ではなくカッコ内で「諸法非我」と表現されています。

一般的に諸法無我が有名なのに、なぜ諸法非我と表現するのか、そしてそれらは同じものなのか、少しニュアンスの違った別のものなのか、という疑問が起こります。

諸行無常の時の「無常」は「常ではない」「固定化されたものではない」というはっきりとした厳密な意味付けが意図されているような感じがします。

しかしながら諸法無我の表現として「無我」とした上で「我は無い」とか「我ではない」というふうにしてしまうと、

「じゃあこの自分と思っているこの『自分』、他の誰でもないこの自分、考えて感じているこの自分が無いのか?

いや、『我思う故に我あり』的に、自分は考えているのだからこの自分が無いなどというのはおかしい」

というふうに考える人も出てきます。

それが因縁によって今起こっていることであろうが何であろうが、考えている主体としての自分はいるではないか、動機はどうであれ、自ら思考し、自ら行動を起こす我がいるではないか、と思うということです。

全く何も無いのであれば、そうした認識をしたり、そうした思考をすること自体がありえません。

つまり「自分の心の中だけで考えるということすら起こらない」という感じになります。

ということで「無」としてしまうと、有の対義語としての意味付けが行われてしまうのです。

そうした意味で、「我ならざるもの」ということで「非我」の方が適訳だということになります。「無いということはないが、あるというわけでもなくただの現象であり、固定化されているものではないよ」というくらいのニュアンスが「非我」です。

ではなぜ、「諸法非我」ではなく「諸法無我」の方がよく用いられたのでしょうか?

アートマン(我)の否定

原始仏教が興った当時、インド・ネパールはバラモン文化でした。その中での宗教観・哲学としては、魂のような実体としての我=アートマンが実在し、それが宇宙の根本原理としてのブラフマンと一体化することが悟りであり、ニルバーナ(解脱)が訪れ、全ての苦しみから脱することができるというような風潮がありました(いわゆる「梵我一如」)。

そうした中で、苦行をして苦しめば魂・我・アートマンが浄化されるというような考えがありました。その他、瞑想などによって魂を浄化させるとか、我と宇宙を一体化させるといった考えがありました。

しかし、胡散臭い瞑想や儀式で神秘体験をして、一時的にアイツこと自我の感覚が無くなったことを悟りだと思うのは、麻酔で眠ることを悟りだと思うことと似ています。麻酔が切れた時、また元の木阿弥になるのならそれは彼らの考えに沿って表現したとしても一体化したことにはなりません。一時的に忘れることができるという程度のものです。

そうして頭がバグっていった人たちはカルト化していきました。自分を神のような存在だと思いこむようになり、救済の名の下無差別テロをするのがせいぜいだったというのは日本においてはよく知られていることです。

さて、諸法非我ではなく、諸法無我という言葉がよく使用された背景には、そうした「アートマンの否定」という要素の強調があります。アートマンの存在を絶対視していた人たちに話をする場合には、根本から覆す必要があるため、固定的な我=アートマンを否定する必要があったということが「無我」という言葉がよく用いられた大きな要素だったのでしょう。

ただこれが示すものは、アートマン=「我」が「実在」であることを否定したという感じです。固定的な実在がなきことを理由に、「そのような感じに感じる」という「アートマン’」≒「アイツこと自我」を現象として感じることもないというわけではありません。

輪廻転生やスピリチュアリズムへの示唆と警鈴

このアートマンの実在の概念は、現代におけるスピリチュアリズムによく似ています。スピリット=魂は、固定的な「我」を示し、輪廻転生の中で、過去世のデータが現世に影響を与え、現世のデータが来世に影響を与えるというような発想です。そうした連続性を持たせるためには、固定的な「我」が必要になります。

そうした固定的な「我」を否定するというところも「諸法無我」の概念の中には含まれています。

諸法無我を考えてみた時、少しマクロ的に見た場合でも「今の私の行動」においてこの体も考え方も動機も因縁によって生じているということになります。

しかしそんな中で、輪廻転生やスピリチュアリズムが好きな人達は、金持ちは前世で良いことをしたとか、貧乏人は、過去にろくなことをしなかったとか、犯罪者は前世でも悪いことをしていたとか、そうしたことをすぐに説きます。しかし、百歩譲って仮にそうだったとしても、その行為や経歴は「その存在」が自発的に全くの自由意志で起こしたものではありません。

要因を突き詰めていったとして、究極的に誰の責任かと言えば「その存在以外の責任」ということになります。

ともすればそうした輪廻的な発想を持つ人達は貴賤で人を含めた存在の価値をランキング付しようとします。その極みがカーストであり、それは差別以外の何物でもありません。スピリチュアリスト等々自称「愛に溢れた最上位のランク」であるならば、どうしてそんな発想をするのでしょうか?矛盾もいいところです。

「受け取る働き」である、心の生起についてはその発生源が何なのかは示すことができません。

しかしながら、どのような立場にあったとしても、今以降にあるべき方向性は同じです。他人との比較なども必要ありませんし、生まれがどうあれ、立場がどうあれそんなことは関係がないのです。

輪廻転生の発想から言えば、「生まれ変わって良い環境のところに生まれよう」という発想があります。「天国に行こう」とかそうしたものも同じです。根本的にそれは環境に依存しているということです。外界に何かを委ね、何かに期待している時点で誤謬であるということを諸法無我や諸行無常は示唆しています。

諸法無我が諸法非我ではなく、諸法無我と訳された裏側には、こうした輪廻の中心となる「我」やスピリチュアリズムにおける「魂」の「実在の否定」という要素が大きかったのでしょう。そうした意味で、諸法無我という表現には輪廻転生やスピリチュアリズムへの警鈴としての要素があります。

諸行無常との関係性

諸法無我は、諸行無常と密接に関係しており、むしろ一つの理を別の側面から示しているような感じになります。

それでは諸行無常がどのようなニュアンスのものだったのかをもう一度見てみましょう。

「一切の形成されたものは、固定的ではない」

という感じでしたね。

そして「一切の形成されたもの」は、直接の原因たる「因」とそうしたエネルギーや方向性が形になるための諸条件たる「縁」によって形成されています。

それは、物事だけでなく、自分の認識ですら同じ理が働いているという感じです。

大きく考えた場合でも、見ようという動機、見るという行為、見て光を感じること、見たものを解釈するということ、そのどれをとっても、因と縁によって「形成」されています。

そして、その形成の法則自体に「我」は関係ありませんし、「我」のような概念すらも因縁によって今起こっているという感じです。

そして、そんな今の現象は「固定的ではなく、すぐに変化する」ということです。

「因と縁によって起こった『我』という現象も固定的ではなくすぐに変化するので実在としての『我』は無い」という感じです。

そして、「苦しみが無くなれば安穏が訪れる、苦しみには原因があり、原因が無くなれば苦しみはなくなる。苦しみの原因は形成された『我』を実体として捉えていることによる」というような一切行苦につながっていきます。それについては、またいつか触れることにします。

一切は「我ならざるもの」

諸法無我の示すところは、一切は「我ならざるもの」という感じです。それが事象であれ、法則であれ、全て「我ならざるもの」であり、「我」という実体は虚像であり、全てと全ての関係性の中で今生じている一過性の現象であり状態だということです。

哲学的に考えた場合、例えるなら雲や川について実体っぽいものはありますが、それが何かを指し示すことはできません。

どこからどこまでが雲で、どこからどこまでが川かは示すことができませんが、だいたいを指し示して対象概念として何となく示すことはできます。

何もなければ、そこに雲があるとか川があるといった印象すら生まれません。しかし、雲の一部を掴んでもただの空気であり、川の一部を掴んでもただの水です。それは雲でもなければ川でもありません。

そして、雲や川を構成しているものは常に変化しており、姿形も常に変化しています。

ということは、示そうが何を示しても完全にそれを指し示していることにはならないということになります。しかし何もなければ存在の印象もない、そのような感じです。

そしてさらに雲や川は、自分の自由意志で姿形を変えているのではありません。太陽の熱や地熱を含め、周りの環境によって今その状態になっているというだけです。

自然界を見るとそのようなことがすぐに理解できるはずですが、我が事となればそれは別だと思ってしまいます。それこそがアイツこと自我の機能であり、その盲目こそが「無明」と言われ、それを見破れるのが智慧と呼ばれていたりします。

全てに「我」を含める

諸法無我を捉える際には、諸行無常とセットにした上で対象の「全て」に「我」を含める必要があります。「我」も「我ならざるもの」という感じでいきましょう。

そういえば19歳の時、夏目漱石氏の「こころ」に衝撃を受けたことを思い出します。

その中でとりわけ印象に残っているのは、「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」というフレーズでした。

「特に君を信用しないというわけじゃない。人間というものを信用していないんだ」という感じですね。

人間に対する態度についての衝撃もありながら、人間全体の中に「自分」が含まれているという新発見がありました。

ともすれば、何かを考える時に「自分だけは除外する」という発想に陥りがちです。

「自分」と「自分以外」というコントラストの中の思考をしてしまうという感じになります。

しかし、それでは盲点が発生してしまいます。

我を守りたい一心で、誤謬にたどり着いてしまうのが人の常という感じです。

諸法無我を捉える上で、「一切の事物は我ならざるものである」であろうが「一切の物事は自己ならざるものである」であろうが、その「一切」に続く対象に「我」や「自己」を含めてみましょう。

通常の思考では、なぜ含められないのか、それは自我自体、「我」自体が、外界との分離を前提としているからです。分け隔てる機能そのものが自我という感じになります。

外界との分離が消える

ここから先は、人によってはすぐに理解できないような領域になります。諸法無我を「知っただけ」では理解できない体感領域だからです。

外界との分離が無くなるとか、外界との分離が消えるなどというと、「いやいやいや、一緒になるわけ無いでしょ」というような感じになってしまうはずです。言葉ヅラを見るだけならそうした感じになってしまいます。外界との分離が無くなるという感覚は、分離されていたものが一体化するという感覚に近いですが若干ニュアンスは異なり、一般に想像される形ではありません。

しかし、諸行無常と諸法無我を体感の気づきを含めて理解できたのなら、「我」を含めた一切が「我ならざるもの」であり、一切の形成されたものは無常であるということになるので、境目が無くなるはずです。

といっても、認識する働き、受け取る機能である「心」はこのこころしかありません。そして実体・実在はなくとも「自我」という「視点」からそれを受け取ることになるというだけです。

しかし、目を閉じれば視覚情報は減ります。耳栓をすれば聴覚情報は減ります。そして、意識の集中の矛先によって、何をどのような比重で受け取るかということは変化します。

そして、意識の中で「大事だと思っていること」の優先度合いによって受け取るものの選択は変化しますが、これは大事なものはよく見えて、大事ではないものは見えないということをも意味しています。

ということで、全ての大切さが同じなら、全てが見えるということになります。

一切が「我ならざるもの」であり、その全てに「我」も含まれており、という感じなれば、「大切さ」が総フラット化されます。

なぜなら、アイツこと自我は自分の生存本能の目線で、恐怖心の克服という視点で世界を見ていますが、一切が我ならざるものとなれば、その生存本能すらただの客観的な状態にしか過ぎず、感覚で言えば「他人事」であり、全てが「他人事」で、我が事も「他人事」になれば、優先すべき「大切なもの」が無くなり、結果全てが大切なものになるというような感じになるからです。

ただ、感覚で言えば「他人事」なだけであって、それを観察している「我」というものが実在しているわけでもなく、あるわけでも無いわけでもない、というような感じですが、ニュアンスでしか伝えることができません。

諸法無我に関して、言語として説明できるのはこれくらいでしょう。

あとは自らを拠り所とし、体感でそれを感じてください。

Category:philosophy 哲学

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