哲学というものは日常の当たり前に「んあ?」と疑問を投げかけるものというのが基本となります。なので「人を幸せにしない」というふうに捉える人が多いということになります。
日常の当たり前のうち、社会的な「当たり前」に疑問を投げかけると倫理学等々になりますが、もっと誰にでも適用されるような自然で密接な部分となると哲学となります。
そして、それらの答えはだいたい宙に舞っているので、論理では辿り得ない迷路に突入することになります。
共通認識、共通前提に疑いをかける哲学
哲学は、主に人々の共通認識、共通前提のようなものに疑問を投げかけることになるので、そうした対象を疑問にも思ってみたことのない人たちとは話が合わなくなってきたりします(哲学と未成年の感覚)。
むしろ疑問に思わないという状態のほうが、何かしら損をしている可能性を含みつつも混乱がない分楽だったりするので、「何をわけのわからんことを考えているんだ?」と不可解に思われることがもしばしばという感じです。
そうした疑問は、日常のいたる所にあります。体系付けられた理論や思想を学んで知るというのも材料集めにはいいですが、それそのものは哲学とは逆行したものになります。
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「なぜ、年が上の人のほうが偉いということになっているのか?」ということは、ある種社会的な問いであり、そうしたことに思いを馳せるきっかけが生み出される環境でないと問いは生じてこないでしょう。
しかし、どんな環境にいようが「私とは何か?」とか「時間とは何か?」ということを考えていくことはできます。
ただ、日常生活の中で接する人たちは、そんなことに疑問を持つことなく、何かしらのふんわりした共通の前提をもとに生活をしています。
というような様すら「本当に起こっているのか?」ということを考えるのが哲学領域になります。
結局、目にすること耳にすること全てが、この私の内側で捉えたことにしか過ぎません。
なので、何かしらの事実とされていることすら「内側で組み立てたこと」という感じになってしまいます。
というような領域の中で、結局何がしたいかといえば、世紀の大発見をするとか、真理が知りたいとか、そんなことをいくら言っていようが、「ただ、幸せでありたい」というだけというのが本音です。
「それが何の役に立つのか?」ということを考える時に、何かしらの結果を享受して楽になるという現象の機能に着目するというのは、とどのつまり「周りにまわって」の発想なので、変なふうに行きやすいですが、社会的な働きや証明が必要ない「即時的で無条件な安穏」に気づくということは、「何の役に立つのか?」という次元を超えて役に立っているという感じになります。
という感じなので論理を超えているということになりますが、論理ではいくらでも揚げ足を取ることができます。でも揚げ足を取られようが、論理を超えているので関係ないということになります。
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