誇り

ああ、諸君はみんな、拷問をうけた者が、拷問のあとその秘密を抱いたまま独房に連れ戻されたときの感情を知らない!― 彼は相変わらず歯を食いしばり秘密をしっかりと守っている。諸君は人間の誇りの歓喜について何を知っていようか! 曙光 229

 誇りについては以前に「精神に対する誇り」で触れました。この項目でニーチェは、「秘密を抱いたまま独房に連れ戻されたときの感情を知らない!」と言っていますが、それは誇りではなく「したり」ではないかと思ってしまいます。

ここでは「やったぜ」という意味ですね。

さて、世の中では、その実「したり」や「驕り(傲り)」であるにも関わらず、時に「誇り」として悪用されたりします。

一般的な「誇り」=「驕り(傲り)」

「誇り」はかわいそうなことにいつも悪用されます。先に掲げた「したり」然り、その他そのほとんどは「驕り(傲り)」にもかかわらず、誇りだと言われるからです。

何百年の歴史のある老舗の誇りというものは、何百年続いた信頼を裏切ってはならないという自戒のためにあるべきで、それに胡座をかくためにあるわけではありません。

それまでの間、信頼を得ていたことに感謝をして、それを裏切りまいとする心構えなら、それは誇りとして持ってもいいですが、同業の新興産業を組合団体や、同レベルの老舗同士で圧力をかけて排除しようとするのは誇りでもなんでもありません。ただの恐怖心です。

歴史を主張する人がいますが、歴史というものはイメージ・印象であって、実在するものではありません。

今現にあるものではなく、今現にあるものはただの印象です。イメージが原因となって、今もそのイメージが想起されている、それだけのことで、今現に何かが実在しているわけではありません。

したり

ニーチェはここの項目で「誇り」といいながら「したり」について触れています。したり顔のしたりですね。

この「したり」というものは、「自分だけが秘密を知っている」という一種の優越感であり、弱者が強者に勝っているという自己陶酔をするための一種のルサンチマンでもあります。そのためにおそらく設定が「拷問を受けている人」なのでしょう。

ニーチェは、とにかくルサンチマンが大好きですから、価値基準のすり替えという点について触れることが多いような気がします。道徳の系譜以降そればっかりです。

読む前からわかってしまう「したり」

グレーな実体験を元に少し記しておきましょう。もう十年以上前の話ですから、別に構わないでしょう。

ある携帯サイトに辿り着いたのですが、そこに「私の秘密を知りたければ」的なページがありました。

個人運営サイトなので、どうせ親友の悪口でも書いてあるのだろうと思いながら、よくよく見てみると、パスワード制限がかかっていました。

中身を見るには友だち申請をして…みたいなことが書いてありましたが、まだまだウェブの技術が進んでいなかった頃です。そんな個人サイトが施した「壁」はすぐに破ることができました。

で、蓋を開けてみると、やはり、親友の悪口でした。「仲良く振舞っているが、こういうところが嫌い」というような内容でした。

すいませんが、こじ開ける前からわかっていました(実際にはこじ開けたというよりも、携帯サイトをPCブラウザでみるとソースが丸見えです)。

他人は計り知ることのない秘密、それが自作のものであっても、その人にしてみれば、何か他の人が知りたがっているものの知ることのできない秘密を、自分だけが握っているかのような優越感でいっぱいになるのでしょう。

誇り 曙光 229

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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