世間では「世間的に評価されているものをある程度評価するように」というような圧力があったりします。
しかしながら、特に気に入らないものについてはそれが世間でどれだけ評価されていようと気に留める必要はありません。
そして気に入らないものについて意識の焦点を当てる必要はないという感じになっています。
ということなので、世の中的に注目を浴びているようなことでも、自分としては関心のないことであるのならば、最初から見ず聞かず、話題にもついていかないというのが一番です。
そんなことに意識を奪われていないで、自分が感動したものだけを評価していれば良いという感じになります。
世間の関心事に関心を向けなくても困らない
20代の時にテレビを叩き割ってからというもの(桃源郷への登竜門)、紙の新聞やネットニュースを含め、基本的にマスメディアには触れなくなりました(専門分野のメディアには触れることがあります)。
それで困ったことがあったかというと今まで一度も困ったことは起こっていません。
稀に最近はどんな感じなのかと思い、数ヶ月に一度、Yahooのトップのような「漠然としたニュースのリストのようなもの」を見ますが、「やはり無駄だった」というようなことをいつも思います。
考えてみれば大学時代や勤め人の頃においては、他にたくさんの意識の矛先があったように思います。新入社員時代は、資格取得も結構ありましたし、同期と食事に出かけることもたくさんありました。もしテレビを叩き割っていなかったとしても、それほどメディアに触れてはいなかったのではないかと思います。
世間の関心事に関心を向けなくても何一つ困ったことはなかったという感じになります。
ちなみに「マカロン」というものを知ったのは、2010年代です。世間的にどれほど一般的なものなのかは知りません。
「マカロンを知らない」ということで、ある意味で笑われたこともありますが、それで何か不都合があったということは一度もありません。
感動していないものを評価しなくていい
マスメディアが出てきてからというわけでもないですが、社会においては「有名」ということで、自分が感動もしていないものをある程度評価しなければならないというような風潮がどこかにあります。
何となくの話題程度ならばいいですが、それが行き過ぎると、有名なものを評価しないことに対してスノッブ的に「強がりである」とか「僻みである」というような判断をする人もいるので困りものです。
何とも思わなかったものを無理に評価するというのは歪んでいます。
モテや母性、父性のこじらせ
とりわけ近年では「応援ビジネス」がある程度形式化してきています。
ホストクラブに通うことを「応援しているから」と言い訳するのと同じように、「頑張っているから応援する」という言い草のもと、対象と一体化しているかのような錯覚を持ち、一種の「情報空間的に自らを慰める行為」に耽っているモテのこじらせを感じるような構造がよく見受けられます。
他人のことなのでどうでもいいですが、感動のポイントがズレているというか、「頑張っているから」とか「成長」とかそうした点に興奮している様は、モテのこじらせ、母性や父性のこじらせにしか見えません。
感動のテクニック
また、世の中にはテクニックだけで人を感動させようとする人たちもいます。
ある程度定式化された感動テクニックに沿ってコンテンツを作れば、ある程度の感動を獲得することができるというようなものです。
ストーリーの作り方とか、当てはめるものであったりとか、そうしたものがある程度法則化されていて、それを入れ替えたりするだけで人はすぐに感動するというようなシロモノです。
「感動と興奮」というような謳い文句の安物の映画を中心に、文芸や漫画、アニメ等でも「舞台設定だけ斬新であれば、あとはストーリーの型は他から引っ張ってくればいいから」と提案する編集者すらいるというような世の中です。
なので、「古典的な童話のまま」なストーリーがあったりするわけです。
個人的な感動だけを頼りにする
そんなわけで当たり前といえば当たり前ですが、個人的には、「個人的な感動だけを頼りにする」ということにしています。
作品に触れたりすることに関して言えば、もうそれほど感動というものはなさそうな感じもしますが、年に数回は新しい感動がやってきたりもするので時折そうしたものを探したりすることがあります。
最近で言えば、ガブリエル・バンサン氏の「テディ・ベアのおいしゃさん」、「ちっちゃなサンタさん」にグッときました。ガブリエル・バンサン氏といえば「アンジュール―ある犬の物語」が有名ですが、個人的には先の2作品の方がさらに好きです。
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