何となく嫌な仕事への対応

最近、仕事をボツにする機会が多くなってきました。

ボツになったというより、何となく嫌なのでボツにしたというようが近いような感じです。

何となく嫌だからということで案件をボツにするという事自体はありがたい環境であると思いますが、よほどの窮地でない限り、基本的にこの姿勢は以前から変わっていません。

ただ少し違うのは、以前であれば、多少面白くなさそうなものでも「その中から面白さを見出そう」とか、「楽しくできるにはどうすれば良いか」とか、「自分ひとりで勝手に落語的に面白がってみる」といった感じで取り扱っていましたが、最近では「もうあまり得れるものがなさそうなのでそうした感じでやってみようとも思わなくなった」という点です。

もちろん相手に楽しくしてもらおうとか、機嫌を取ってもらおうというようなことは全くありません。しかしながら、それでも自分自身ですら面白くできそうにもないと思ったときは、様々な手を使って仕事をボツにするというような感じにしています。

この様々な手というのはそれほど大したことはありません。ムダに高い費用を提示したり、話の内容に手を抜いたり、相手によっては連絡を無視したりする程度です。

これには人間の不合理さ、意志決定の曖昧さが関わっており、それにくだらなさを感じた時に「何だかんだでボツ」がよく起こります。

行政が絡む案件

そういえば昨年、間接的に行政が絡むような案件に対応したことがあります。

行政はだいたい入札という形を経て仕事を依頼してきます。

基本的に入札云々は嫌いで「何を厚かましいことを」というくらいに思っているため、普段行政関連の仕事を直接受けることはありませんが、社長仲間からやってきた仕事であるため、半分義理のような感じで関わることにしました。

そんな時でも一応自分の内側では「なるべく楽しく、なるべく最良の結果を」と思っています。たいてい面白くないものをなるべく面白くするというように考える癖がついているからです。

ただやはり、行政が絡むような仕事は、面白くありません。

上司による話のもつれ、弱腰からの「他のマネ」という案の定の結果

例えば、「本当に結果を出したいのであれば、このような感じで進めるのはいかがですか?」と話を進めてみると、担当者は最初乗り気なのですが、結局上司が云々で話がもつれ、最終的に弱腰になって、「近くの類似機関がやっていることのマネ」に合わせるように逆方向に話が進んでいったりします。

予算内であれば羽振りは良いため、見方によれば方針変更への対応費で収益が増えるので良いと考えることもできますが、少なくとも疲弊します。

だいたい安全ルートを歩くためにそうしたところに勤めているような人たちなので冒険心は期待できません。安全が第一です。

まあこうしたことは行政関係に限らず起こることなので、相手にとっての最良というものは、結局相手が快適であるかどうかという程度なのだということをいつも思ったりします。

表に出てこない「気は弱いが、偉そうにはしたい」人たち

特に行政が絡むような話に限らずですが、担当者に権限を持たせない割に表に出てこない人たちがいる場合は、ロクでもない感じになりやすい傾向にあります。

担当者経由で意見を言ってくるような人たちですね。

この手の人達は、原則気が弱いのですが、偉そうにはしたいという人たちと相場は決まっています。

「部下の知り合いだから、自分より下」

という構造を保ちたいという感じになっています。体育会系に多いタイプです。

担当者に権限を与えているような細々したことなら口も出さないので良いですが、決定が必要なときには担当者を通さずに直接出てくれば良いものを、何が何でも出てこないという人は、ほぼ確実にこの「気は弱いが、偉そうにはしたい」タイプです。

というような人が絡むような案件は、話がもつれやすくロクでもない感じになりやすいので、嫌な仕事の類になります。ということで普段は受けません。

昨年のそれは、社長仲間の会社が直接という感じで義理立てもあったので一応最後まで関わりました。しかし直接の取引であればそうしたニオイを察知してボツにしていたと思います。

なぜそんなに偉そうになれるのか?

以前どこかで触れたような気もしますが、行政関連の担当者にも勘違い野郎が結構いて、「入札に参加しませんか?」と来られたので「一般見積もりと同等の扱いであれば見積もりを出しますが、うちは費用ももらっていないうちから企画・プレゼンテーションなんてしませんから、入札には参加しません」というようなことをもう少し社会人的に返すと、

「何ですかあなた達は!」とキレてきたやつがいます。

その言葉をそっくりそのまま返してあげたいと思いましたが、「うちはそうですので」とだけ返しました。

偉そうに駄々をこねればなんとかなるとでも思っているのでしょうが、結局相手はそれ以上何にもできないわけなので、それくらいの対応で良いと思っています。

コンペ参加への依頼に含まれる傲り

世の中には、行政や大企業など大きな組織の看板があれば相手は恐れ慄くだろうと思っている人たちがいます。

「全員参加のレース」で上位に食い込んだ自分たちとでも思っているのでしょう。しかし、そうした「試験」のようなものに全員が参加しているわけではないのです。

「できなかった」ではなく「意図的に選ばなかった」というだけなのに、勝手に「相手はできなかったが自分はできた」と思いこんでいる人たちです。

こうした人達は、なぜか最初ちょっとナメてかかってきますが、話の流れで出身企業等々を言うと急に顔色を変えます。別に「意図的に選ばなかった」ということを示すためにというわけではありませんが、その方が手っ取り早い時はそんな感じでその場を流すこともあります。

それをやるのは自分でなくてもいいし、自分の客もその人じゃなくてもいい

そんな感じなので、いつも「それをやるのは自分でなくてもいいし、自分の客もその人じゃなくてもいい」ということを思っています。

昔は、一応いろいろな人に対してしっかり対応しようというようなことや一生懸命やろうというようなことを思ったりもしました。

しかし、変な人もいますし、そうでなくても相手の「快適さ」の基準は、本題とは別のところにある場合もあるので、自分の中の全力は相手にとっての「何となく違う」になりかねないという感じで不完全燃焼になることもあります。

ということでその後、「そうであるのなら、ほどよい適当でいい」とような気がしてきました。

そして「それをやるのは自分でなくてもいいし、自分の客もその人じゃなくてもいい」という感じになりました。

あくまで基本的には適切な収益だけが目的で、それ以外のものは「おまけ」くらいで特に求めないというのが気楽です。

ただそうなると、モーレツ的なやる気というものはあまり生まれません。

特に僕は特に物が欲しかったり、世間の普通に合わせるということを求めないので、それほど収益自体も求めないようなフシがあります。

ということも踏まえるとより一層「嫌な仕事などやるわけがない」という感じになってきます。

ただ人間観察の面白さがあるので、ある程度変な人でも対応する場合はあります。でも、本当に嫌になったらお客でも相手にしなくなります。

いちいち掴み取らないくらいのゆるさ

チャンスというものは、目の前にやってきた時にそれに気付けるかという点と、ちゃんと掴み取ることができるかというような要素がありますが、最近ではいちいち掴み取らないくらいのゆるさで過ごしています。

勤め人なら「ちゃんと掴み取れ」と説教されるくらいの感じですが、例えば、会社の問い合わせフォームからの連絡で、相手の入力メールアドレスが間違っていたとしましょう。そうなると、こちらの返信が未達となります。その最初の連絡に電話番号も載っていたりした場合、普通は電話したりするのでしょうが、僕の場合はよほど面白そうなものでない限り、もう返信メール未達の時点で手放します。他の人にも「その手のものは追いかけなくていい」と言っています。

本当に重要なことなら再度連絡が来ますし、それくらい相手にもやる気がないということでもありますから、どうせ良い結果にはならないでしょう、というようなことを思ってしまうからです。

勤め人なら叱られてしまうかもしれませんが、別にお客は星の数ほどいます。わざわざそうしたものを追いかける必要はないのです。

ということも、ある程度お客に支持されていないとできないことかもしれませんが、創業期でも同じような姿勢を保っていました。

襟を正すとすぐに吉報がやってくる

不合理な意志決定と社会的正義

やる気はある意味純粋な気持ちから生まれるので、収益構造と社会性をくっつけて、いろいろと社会的正義で動こうと思ったりもします。

しかし一方で、たいてい不合理な意志決定がなされているため、そうした意図も踏み潰されたりしてしまうこともあります。

例えば、同じ商品を定価販売で150円で売っているところと、何となく200円で売っているところがあったとしましょう。

200円で売っておいて、20%オフというようなことが書いてあったりした場合、実際の売価は160円です。

比較するとそれでも、値引きをせずに定価販売をしている150円の方が「広く商品の価値を受け取ってもらう」という意味では、合理性がありそうですし、消費者側としてもお得です。

が、消費者側は200円の20%オフの160円の方を評価したりします。

そんなある意味騙しのような業者に対抗するために誠実に150円で売っていたとしても、社会は160円の方を支持したりします。

という感じの中、うまくやろうとすると「160円側」と同じようなことをしなくてはなりません。

ということは、自分の中の社会的正義と実際の行動が矛盾してしまうことになります。

なので、社会的正義を意識しすぎると、社会ではダメな方になってしまうことがあります。

かといって、「それはテクニックによる錯覚ですよ」ということが広く知れ渡り、たくさんの人が合理的に動くということはあまり期待できませんしマクロ的すぎます。かなりの時間を要するでしょうし、実現するかすらわかりません。ということで、それが実現する前に会社が潰れてしまいます。

ただ、そうした不合理な方に合わせるというのも詐欺師になったようでやる気が削がれてしまいます。

ということも踏まえて「それをやるのは自分でなくてもいいし、自分の客もその人じゃなくてもいい」という姿勢を保ち、嫌な仕事は避け、面白い仕事だけをするという感じで過ごすのが一番です。

「面白い仕事だけをする」という場合の「面白さ」

ただその面白さというのは、「自分自身で面白くできそうだ」というものも含みます。これは「理詰めで脳筋をキレさせて歯ぎしりする様を見る」というようなことすら含みます(なので世間一般に思われるような「嫌なことからの逃避」というものとは少し性質が異なります)。

自分と合う鍵穴を見つけようと彷徨っている感じではありません。

少しは社会のお役に立つようにとは思っていますが、力を発揮できてこそのお役立ちです。なので、明らかに向いていないと思った場合は一瞬で去ります。

面白くもない場合力を発揮できませんし、それをやるのは自分が一番適しているとは思えないからです。そうなると自分のためにも相手のためにもなりません。

Category:company management & business 会社経営と商い

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