虚しさの先にある安穏

経験の始まりと終わりを明確に捉えて区切ることはできませんが、終わりに生じる結果を観察していると、たいへん虚しい気持ちになってきたりします。

それはいわゆる諦めのようなものとは違っています。

一見虚しいような感覚にもなりますが、それでも憂いはありません。

なぜなら単なる虚しさには奥に期待があり、期待なき一種の虚しさには安らぎしかないからです。

でもその期待のなさは、諦めとはまた様子が異なっています。

名とすべて」の時と同様に雑記第200投稿目記念として、あまり理解できないかもしれないような感じふわふわと書いていきます。哲学テーマでもいいのですが、今回もまた雑記にしておきます。

動いている不思議

ある時ふと思いがよぎりました。

「何をどこまで?何のため?」

そうした思いがよぎることは小さいときからよくありました。

「それが叶ったところで、それが一体何なんだ?」

日常のすべてを思い返してみるとそんなことだらけです。

経験したこと、理解したこと、それらを全て思い返してみても、「で、それが何なんだ?」と思うことばかりです。

「目標を達成した」

というときでも、「それでそれが一体何なんだ?」と思うこともしばしばです。

逆に達成できなかったとしても憂いはなく、達成できたとて「それが何なんだ?」と思うという感じです。

そしてよく見渡すと、喜びや楽しみ、未来に心地よい状態が待っていると想像し、それに向けて何かを行っているときでも、どうせ結果は「知っていること」であり、むしろなぜいつもそれに向けて何かを頑張らなければならないのか、ということのほうが不思議でした。

美味しいものが食べられる、と思ってお店に向かったとしても、その味によって経験できる状態のことはだいたい想像の範疇ですし、それを超えたとしてもその経験がだいたいどんな範囲のことかは既に知っています。

そして全く知らないことだと、少しは間も楽しかったりしますが、知ってしまえばその段階から「大した事ではない」と思ってしまい喜びはありません。

そんな中、同じようなことを繰り返したり、どうせ最後はむなしくなるようなことを追い求めて何かに奮闘するということが一体に何になるのか、ということを幼き頃から思っていました。

生きることは素晴らしいとか人生は素晴らしく美しいというのが世間では一般的でしたが、特に悲観的な感じでも何でも無くフラットに冷めていました。

どうせ同じようなことの繰り返し、そしていずれそれも終わり、同じようなことを繰り返すことも無くなる、とするならば、なぜ自分は動いているのかということが不思議でたまりませんでした。

あれもこれもすべて消える

何か形を残そうと奮闘しようが、いずれ消え、消えれば全てが無かったことのようになります。

公園を走り回ったことも、動物と触れ合ったこともすべてが消えます。消える前提なら別に最初からいらないじゃないか、とも思いますが「この現在」がどうあるかというところだけに目を向けると、前後の関係はどうでもいいのかなぁということを思ったりしました。

「こんな日々が続いて欲しい」

そんなことを思ったこともたくさんあったと思いますが、しばらくは似たような日々が続くかもしれないものの、未来永劫に続くはずもありませんし、いずれただの思い出となります。

学校を卒業する時、勤め先を辞める時、バイト先が閉店した時、その最後の日、もっと憂うかと思えばそれほど憂いもなく、当たり前のような穏やかな日々がもう二度と返ってこないはずなのに、その空間とは永久にさよならのはずなのに、特に何も考えることはありませんでした。

「きっと同じような楽しい日々がやってくる」

ということを思っていたという部分もありますが、離れ離れになった人たちともまたどこかで会うだろうなんて楽観視して、いつまでも仲良くいられると思いつつも、そうした関係性は見事にすぐに風化していきました。

それに憂うことはありませんでしたが、稀に仕事終わりに職場を軽く掃除する時のような、あの空間を懐かしく思うことがあります。もう二度と経験することはないですし、経験したところでそれが一体に何になるのかということにもなります。

そうして思い出を懐かしむということすら、「いつかはすべて消えるんだなぁ」と思うこともあります。

常に「いつかは消えて無くなるものばかりなのに、何を執着することがありましょうか」と思いますが、別にそれらに執着して「手放すまい」としていようがいまいが、次に起こることすら「それが一体何なんだ?」ということは変わりありません。

贅沢とは何か

どうせなら日々楽しく苦しみ無きようにと思ったりしますが、いくら贅を尽くそうと思ってもそれには限界があります。

「エアコンを良いものにした方が体は快適だ」というのは良いですが、100倍の値段をかけたところで100倍心地良いわけではありません。

しかもそれらは、環境の悪さに対しての改善策の範疇なので、感覚や感情をマイナスからゼロに戻しているだけだったりします。

でもよくよく考えると、すべてのことにおいてゼロを突き抜けるということはそれほどありません。そして若干突き抜けたかのように思える時であっても、次の不足を生み出す原因になります。その時は良いですが、基準が厳しくなることにもなりますし、その良い瞬間という現在は一瞬で過去になるのです。

そのような感じで、連続する現在をより良いものにしようと、せめて贅沢に生きることを目指してみても、不足を満たしているだけか、次の不足を作ることくらいしかできず安定した贅沢は叶いません。

人に褒められようと頑張ったところで、褒められてそれが何になるのでしょうか?

社会的な権力をつけたとして、その裏に失う恐さがあればそれが何になるのでしょうか?

何をどこまでどうすれば、不足のない安らぎが手に入るのでしょうか?

いずれ消え果てる時まで続く、今現在をどのようにすればいいのでしょうか?

何になれば何になるのでしょう?

どこまでも続く「『それが何なんですか?』としか捉え得ない結果」をどう捉えれば良いのでしょうか。

「それが何なんですか?」としか捉え得ない結果

見渡す限り「それが何なんですか?」としか捉え得ないものばかりです。

そんな中、とりわけ社会における価値が何になりましょう。

所詮一過性のものばかりで、マイナスからゼロに戻る程度のものばかりではありませんか。

体が痛ければ、痛みが取れた時に喜び、痛みのない状態が続けばそれは平常として何事もなく扱われるではありませんか。

逐次的な論法をもって今を肯定したいとして、前提となる絶対性を帯びた概念などどこに発見することができましょう。

それが不可知だからといって神学に逃げる者たちの譫言をどうやって納得しましょう。

もしかすると演繹の世界に答えを求めても大前提は不可知領域になるのではあるまいか?

しかし不可知であるからといって、妄想でそれを埋めるのは気が狂れているとしか思えません。

ああ、示され得ぬ「どうあればよいか」という不思議。

いつの間にかゲーテのようにすらなりうるこの嘆き。

おお、ウェルテルよ。君はそこに何を見たのか。

君がシャルロッテと出会わなければ君はどう生きただろう。

全ての価値転換の試み

なにか捉え得ぬものがあり、それを発見しそれに沿う。

ああ、いかにもありふれた奴隷精神よ。

奴隷はその先に何もなく、目の前に与えられた雑事をこなすのみ。

偉大なる主(あるじ)の目的すら見えぬ。

主の目的?

そのようなものは存在せぬ。

主がいたとてその者の持つ目的は次のとおりである。

享楽、虚飾、自己欺瞞。

おお、迫り来る恐怖をいかにごまかすか、それが目的である。

では、恐怖をごまかして一体何になるのか?

恐怖すらなければ、何も為すことはない。

迫りくる「それ」に慄きつつも、それが何かがわかればそれは消え失せる。

一切の価値転換の試み。

それは一切であるがゆえ、この内にも現れる。

怒り狂うものよ。

その正体は見破られた。

名とすべて (雑記第100投稿目記念)

Category:miscellaneous notes 雑記

「虚しさの先にある安穏」への6件のフィードバック

  1. 感情をエントロピーと考えると、bossuさんのいう安穏は
    そのエントロピーが減少し0に近しくなった状態と定義できるのでしょうか

    1. コメントどうもありがとうございます。
      エントロピーが減少し0に近しくなった状態という感じにも近いですが、感情等々の情報状態の安定よりもどちらかというと視点や受け取りの方向のほうがポイントになると思います。
      日常でも極度に集中すると現在に意識が向き、その他のことに混乱するということは収まりますが、集中が解かれるとまた混乱や苦しみの感情が生起されることになります。
      それらも全て変化するので、一度安定すればその後はずっと安定するというわけでもありません。なので、変化の中にあっても無駄な苦しみや煩いに振り回されないというのが安穏という感じになるでしょう。

      1. では、視点や受け取りの方向をどのようにすれば安穏は得られるでしょうか。それとも、安穏を「得よう」とすることがアイツの罠であるとか。そうであれば、ただありのままを見破ればよいということになるでしょうか。しかし、そこに至るまでの方法(あるいは心がけ)を手探りすると時間がかかりそうです。

        1. 安穏を「得よう」とすることがアイツの罠であるということすらアイツの罠であるという無限ループに陥りますので、思考上の理解よりも「気づき」が重要になると思います。

          伝統的な方法としては、ありのままに観て気づくというヴィパッサナーになるでしょう。
          リアルタイムで一切の生起と消滅を観察するのが一番だと思います。
          自然な呼吸を観察し「息を吐こうという意図」の発生から減少、消滅、その消滅と同時に起こる「息を吸おうとする意図」の発生をラベリングと共に観察するのが最もわかりやすいと思います。体の姿勢の変化でも良いでしょう。
          あれこれ考えても結局現実は、五感・意識の五蘊だけであるということが感じれると思います。
          そうしていると理論による理解を超えて「ありのままを見破る智慧」が自ずと生じてくるはずです。

          1. 回答ありがとうございます、
             
             度々質問ですが、アイツを超えた先には何が「ある」のでしょうか。アイツの肥大化が解消されて、単純な自己意識とししての自我になるのでしょうか。      

            もう一つ、五感が知覚した情報を受け取っているのはアイツでしょうか。それとも、それとは別の機構でしょうか。いわゆる心とは関係があるのでしょうか。なぜこの質問をするに至ったかというと、私の仮説では、人間を含めた動物には根本的にあるベクトル(生存本能、快不快)があり、そこに思考力が加わるとアイツ(自己意識も含む)になるというものなのですが、そうするとウィルスや昆虫にはアイツは存在しない、あるいは弱いことになります。以上のような考察のもと、さらにウィルスや昆虫が感覚器官が検知した快不快に基づいて行動しているという仮説(竹田青嗣の説)に基づくと、その快不快を認識しているのが、自我とは別の機構によるということになるからです。以上についてbossuさんの考え、または反論を伺いたいです。

            1. アイツを超えた先には執著なき安穏があります。何かが生じるわけでも滅するわけでもあるわけでも無くなるわけでもなく、依然として抽象化された空の状態ですが、五蘊苦は生じても五蘊盛苦(五取蘊苦)は生じないというような感じになります。認知バイアスがないそのままの受け取りのため無駄な苦しみが生じないという感じです。

              「心」はただ受け取るのみの働き・機能であるという形で定義しています。なので、自我を通して歪んだ形で受け取る情報も、五感からのそのままの情報も全て受け取るのは心という形になります。
              そういうわけなので、五感が知覚した情報を受け取っているのはアイツというわけでもありません。

              リアルタイムの五感からの情報が記憶によって歪み、無駄な苦しみを受け取ったり、現在以外の妄想から無駄な苦しみを生じさせるという部分が煩いであり、それが生じないのが安穏であるという感じです。

              「根本的にあるベクトル」と「思考力が加わること」という分類自体はそのように捉えることは可能であると思います。

              ただ生存本能すらも自ら生み出したものではなく、記憶や思考を中心とした自我も外界からの情報の集合体であるにすぎないため、いずれにしても諸法無我ということになります。

              思考的な情報を含めた記憶も関数であり、快不快の本能的な判断も一種の関数ですが、仔細に分類するとすれば別のものと捉えても良いと思います。
              脳の部分の差のようなものになると思いますが、脳の状態を観測することはできても、この経験を受け取っているのが結局何かはよくわからない上に示しようがないという感じになります。それが心であると定義しています。

              また、心の定義にも付随する形になりますが、この心以外の他者の心は捉えようのないものであり、究極的にはどのような機能を持っているのかはわかりません。存在そのものも、この意識が認知の上で情報状態として生み出したものと考えることもできます。
              確かに観測上法則が見出されるものであっても、最終的にリアルタイムでどのように受け取っているかというのは、思考や感覚によりこの意識の上でまとめあげて作り出して、この心で受け取っているにすぎないということになります。
              少なくとも想像の域を超えて確認できる事実は、思考的な情報に左右されずこの心で受け取ることのできる対象のみとなります。

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