良心的な人々の悪用

つい先日喫茶店に行った時のことです。何やら思想団体のような団体が、デモ行進について会議をしていました。といっても若い人たちです。京都といえば昔からその気が多いのですが、やはり例に漏れず群れたいだけのB層でした。

「デモ行進中の差し入れに感動した」ということを女性が語っていました。しかしながら、自分たちの代弁者である思想団体に差し入れをするくらいたやすいことです。

良心的な人々の悪用として行動と思想の内容との無駄な関連付けについてでも触れていきます。

行動と思想の内容

「差し入れ」という善意・良心的な誰かの行動による感情と思考の産物である思想を関連させていますが、思想の内容と群れることと、差し入れは一切関係がありません。

まさに差し入れ時の「体の温もり」のような体感、感覚や感情と思考をごっちゃにしている良い例です。

例えば寒い日に温かいスープを貰ったとすれば、お腹周りが温まるので自然と体はリラックスします。

それと思想の内容をごっちゃにしてはいけないのです。

ついでに言うと、差し入れをしてきた人の良心的行動と、自分たちの支持者達は良心的行動を取るようないい人たちだ、という関連思考をしています。しかしながら、そのような行動の動機たる良心的なものと、妄信的になっている思想は別物です。

自惚れのような自己肯定

「こんな良心的な人たちが自分たちを支えてくれている」

という自惚れのような自己肯定です。

というようなことを思いました。

思想団体の運営にしろ、デモ行進にしろ、したければすればいいですが、実際に何かを変えたければもっと実務的なやり方をしなければなりません。そのやり方では宙に舞って終わりです。まあおそらくそんなことはしないでしょう。

「いい人たちが考えることはいいことに決まっている」

という感じの感情を軸にした盲信です。

そしてそんないい人たちが自分たちを支持してくれているというような自惚れがそこにあるような感じになっています。

関わりたくない人間

同じ日に、夕食を摂っている時です。

せっかく運ばれてきた料理には目もくれず、雑誌を見ながら「来週はどこに食べに行くか」の会議をしている女性たちがいました。

今あるもの、今起こっていることに集中せずに、既に未来について意識を集中させているということですが、この手の人達は結局何をもって喜びとして、何をもって楽しみとしているのか理解に苦しみます。

そういった人たちとは関わりたくもなく、また、関わる必要もありません。

代理人的な方たちとの付き合い

しかしながら経済社会ではそういった人たちに支持されないと、お金は集まりにくいということになっています。

端的には生活を支えるための所得を得るにあたって、資本主義的に「収益の最大化」を考えた場合は、そうした関わりたくないような人たちを刺激し、付き合うほうが儲かるということになっています。

そういうわけで、個人的にはやはり「そういう人たち」と何とか関わってくれる自分の代理人的な方たちとの付き合いだけで十分かなぁと思っています。

もちろん本当の代理人というわけではないのですが、そういった中継地点的な役を引き受けてくれる人たちのおかげで、あまりかかわらずに済んでいます。

まだまだ経済社会の中にいますが、今のところそれがまだ気楽かなぁと思います。

倫理と道徳が陥る罠

良心的な人々の悪用 曙光 53

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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