自己実現と安らぎ

「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」

といった感じで、自己実現と安らぎについて触れていきます。

ふと心が折れそうになった時、一種の呪文のようにつぶやいてみると面白いかもしれません。

より厳密に考えると、「無意識は単語の概念から想起するため否定形を認識できない」とか、「単語の意味を想起してから打ち消すので、一度は想起してしまう」という部分もありますが、そのようにしか表現できないので、ひとまず先の感じのフレーズにしておきました。

この自己実現と安らぎの関係については、複数の意味が抽象的に統合されています。

そういうわけなので、意味を分解してそれぞれを見ていきましょう。

と、その前に大前提について少し触れてからにしておきます。一応今回もかなりレベルを落として書いていきます。

全ての生き物は幸せでありたいと望んでいる

大前提として「全ての生き物は幸せでありたいと望んでいる」というところから押さえておきましょう。

具体化した場合、仮にその「幸せの形」は千差万別であっても、何かしら満足を得たいし、不快を解消したいという感じで思っているとしましょう。

それが傍から見るとバカらしいことであっても、その行為行動の奥にある目的としては何かしら「幸せでありたい」という感じになっています。

そこで考えてみたいのが、その幸せと自己実現のようなものです。

究極の幸せは無条件の安らぎです。

こなさなければならない条件がなければ無いほどという感じです。

しかし、アイツこと自我は「こうあれば幸せだ」という条件をつけてきます。根底は生存本能ですが、生命維持レベルを超えて「社会の中でどのようにあるべきか」というものまで含めてきます。その社会という空間は、広く一般的な社会から二者以上で構成される小さな社会まで全てです。

で、何かしら幸せでありたいとか安らぎの中にいたいという感じになるので、そうあるようにと「自己実現」を欲してきます。

逆説的にそれを求めている事自体が、不足の認定になるので、幸せではないということになるのですが、それは他の記事でいくたと触れているのでひとまず置いておいて、「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」ということの意味について触れていきましょう。

他者を通じた自己実現

世の中では多くの場合、他者を通じた自己実現を為そうとしています。承認を得ようとすること、自尊心を満たそうとすることを筆頭に、いわば相手を踏み台にした形で「幸せを獲得しよう」という感じになっています。

しかしながら、その人の自己実現やそれを通じた幸せの獲得など、こちらとしては何の関係もありません。

関係のあることとして、こちらが取り扱うことはこちらの権限としてありますが、相手にそれを主張する権限はないのです。こちらの意識の上での状態の話ですからね。

そしてもちろんそれは実利的な交渉においても見られたりします。

相手のプライドなんかをくすぐって自己都合の方に誘導しようという輩です。

そんな感じで、

「いい人だと思われたいですよね?」

「優しい人だと思われたいですよね?」

「器の大きい人だと評価されたいですよね?」

といった脅迫が通用すると思っている人たちもたくさんいます。

洞察するとすぐに見える構造

こうした他者を通じた自己実現における脅迫のようなもの、とりわけ「いい人だと思われたいですよね?」といった類型に当てはまるものはたくさんあります。

おねだりという行為もそうですし、罵詈雑言のようなものも同じです。

それが「相手をコントロールできる」という実感を含めた自尊心の補償なのか、実質的な値引きを含めて物やお金をもらうということなのかといった点はバラバラですが、いずれにしても自分の言動によって相手を動かすことで自己実現を叶えようとしていて、幸せな状態を望んでいるということには変わりありません。

「結局相手は何を望んでいるのか?」

ということが見えれば、いくら世間的な倫理道徳を盾にしたところですぐに見破ることができます。

「今月困ってるんです」

なんて言われても

「知らんがな」

で終わりです。

以前にも触れていましたが、

「いい人だと思ってたんですけどね」

と言われても

「で、それがなんですか?」

で、終わりです。

そういう場合、そんな倫理道徳的ことを言いながら、結局何かしら自分の自己実現のことしか考えていません。

それに付き合うか付き合わないかの権限は、相手にはありません。

もちろん社会においては、実質的な交渉において相手にも権限があります。相手が「ダメだ」と言えばそれまでだというようなこともあります。

でも、「相手がダメだと言えばそれまでだ」というのと同じにように、自分の選択においても「ダメだ」という権限はあるのです。

応じることは相手の力を認めることにもなる

ここで考えてみたいのが、相手の「いい人だと思われたいですよね?」という脅迫に応じることは、くだらない相手の力を認めることにもなるという点です。

いわば相手は、「いい人だと思われたいですよね?」という謎の「倫理観やプライドをつつくような脅迫」が通用すると思っていて、その奥にはそれによって何かしらの自己実現を叶えたいというものをもっているはずです。

ということは、そうした低レベルでくだらない本人の自己実現に付き合うということ、つまり反応するということは、「相手には自分をコントロールする力がある」ということを認めてしまうことにもなりかねません。

「いい人だと思われたいですよね?」

と迫ってくる輩に

「いい人ですね」

と認定されたとして、それがどうしたというのでしょうか。

倫理・道徳を持ち出したような脅迫で結局自己都合を押し付けてくるだけの低レベルなものに「いい人だ」と認定されることを欲するというのは俗っぽく考えてもナンセンスです。

アドラー氏やジョブズ氏風に言うと

「好かれるに越したことはないが、嫌われることを恐れない」

という感じになります。

意識の中の直接と間接

まあ確かに「いい人だと思われるに越したことはないし、もしそう評価されるとすればありがたいことだ」という感じにはなりますが、「相手がいい人だと感じている様を見て、いい人だと思われていると評価して喜んだり安心したりする」というのはかなり間接的です。

一旦外に出て、また外を捉えて内で受け取っているような感じです。

で、それは我が事として意識を高めるとかそうした目的をもってそうしても良い部分はあります。

例えば、何かしら「自己実現」としてより向上した自分を欲している場合にあって、自分の中では考えが煮詰まっていて、これ以上もう内部循環だけではどうしようもない、という時に、現在の実力を外に出して、外から評価をもらい、そのフィードバックをもって自分に磨きをかけるというような場合です。

その場合、「外から評価をもらう」という点は同じなので、表面上は他者に依存しているようにも見えますが、この場合は、動機ベースで考えると「自尊心の欠落から他者の評価や承認を欲している場合」とは構造が異なっています。

自尊心の欠落から他者の評価や承認を欲している場合や「お金がなくなる恐怖から不当な要求をする」という場合は、相手に依存しています。

相手が期待通りの反応をしてくれないと意識が騒ぎます。

しかし、ブラッシュアップのための情報を得たいというくらいの動機であれば、その評価が厳しかろうがなんだろうが、別に構わなくなります。

ある程度以上の地点に立たないと、それら両方が混在しているような感じになりますが、それでも一つの言動をとってみても表面上は同じに見えても奥にある目的や動機が異なれば性質は全く異なったものになります。

そして、「相手がいい人だと感じている様を見て、いい人だと思われていると評価して喜んだり安心したりする」というのは間接的で不確定要素がたくさんありますが、「別にいい人だと思われなくていいし、相手の自己実現に構う構わないの権限はこの内側にある」と思えば、相手に依存することが無くなっていきます。

相手の状態に依存することがないのだから直接安らぎの状態になるという感じです。

自己実現に付き合うかどうか

そんな感じなので、ふと理不尽な要求をされた時や、「いい人だと思われたいですよね?」といった脅迫をされた時は、

「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」

と、つぶやきましょう。

「自己実現に付き合うかどうかは私が決めることです。あなたが、私を踏み台にして為そうとしている自尊心の獲得や恐怖心の解消には付き合いません」

という感じで思っておくと良いでしょう。

極端な例ですが、次のようなケースを思い浮かべてみましょう。

「若者がこれからの日本を作っていくのだから、若者の未来を応援したいですよね?」

「まあなるべくね」

「私は若者です。若者の未来を応援するためにお金をください」

とか

「悲しみのない平等な社会を望んでいますか?」

「そりゃあもちろんその方が良いでしょう」

「ではどうしてあなただけお金を持っているのですか?

平等な社会を望むのであれば、私にお金をください」

「嫌ですよ」

「平等な社会を望んでいたのは嘘ですか?

いい人だと思われたいですよね?」

とか

「あなたは愛に溢れる世界を望みますか?それとも苦しみに溢れる世界を望みますか」

「そりゃあ愛に溢れる世界の方を望みますよ」

「では、一緒に主の福音を布教しましょう」

「いいえ、結構です。そういうことではないと思いますから」

「退けサタン!まむしの末よ!」

世間ではこのような低レベルなやり取りに似たり寄ったりな交渉がよくなされています。

そしてその脅迫に負けて自己犠牲の方に走っている人もいたりします。

「あなたが倫理道徳的な言い訳を用いて叶えようとしている自己都合の自己実現と、この心の安らぎは関係がありません」

という感じで思っておけば、

「言うのは結構ですが、応じるつもりはありませんし、どう評価していただいても結構です」

という感じで過ごすことができるでしょう。

単純にはカルト信者に「サタン認定」されたところで、「別にどうでもいいじゃないか」という感じです。

現状の自分が想定する自己実現

自己実現と安らぎの関係については、複数の意味が抽象的に統合されているという感じでお伝えしていたので、次に現状の自分が想定する自己実現の形すらも、本来この心の安らぎとは関係がないという部分について触れていきます。

世間ではカルト教団や「成功するぞ系」の人たちを筆頭に何かしら社会に働きかけたりなんかして自己実現を叶えようとしていたりします。もちろん特に社会を介さずとも自己承認欲求的に自己実現を叶えようとしている場合もあります。

まあそれらはそれらで各人の個人の領域のことなので好きにしてもらっても良いのですが、そうした自分の意識が想定する「自己実現の形」というものすらも、「外界からの情報が組み合わさって形成されただけのもの」であるということを見逃してはなりません。

そう考えると得てきた情報ソースによってその形は千差万別ですが、やはりその情報の内容によって、形成された自己実現のあり方が、ロクでもないものである可能性もあるということになります。

自分の中では自発的にそう願ったものであると思っていても、そう思わさせられているだけだということもよくあります。

特に意図的に情報源が遮断されていたり、特定の情報のみが伝えられているという場合でなくても、「何を見るか?」という選択の方向性すら幼少期の教育などから方向付けられているという部分もありますし、情報自体が間接的にコントロールされている場合もあります。

いわば「完全なる自由意志のない状態」にあって、完全に自分ではコントロールできないという感じになっています。

そういうわけで、自分の想定する自己実現の形自体が、誰かの都合に合わせたものである可能性も大いにあります。

また、イメージの上ででも現状の自分が想定できる「未来像」は、現状の自分が持っている情報やその状態の自分が見える範囲で組み合わされたものです。

なので、自己実現を目指して行動するというのもいいですが、

ふとした時に自分に向かって

「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」

と、つぶやいてみましょう。

他人のわがままに付き合う必要はないのと同様に、この自分の意識自体が幾多の他人からもたらされた情報によって形成されたものであるのならば、そんな自分の意識のわがままにも付き合う「必要」はありません。

もちろん「寒い」とか「のどが渇いた」という領域は、即時的に苦痛を伴うので、身体の恒常性維持機能として、論理を超えて対応すると良いでしょう。

しかし、意識の中に起こった騒ぎ、つまり意識に起こる煩悩は、他人のわがままと同様に、「他人によって形成されたわがまま」でもあります。

もちろん他人のわがままに付き合う「必要」はないものの、自分の権限において付き合ってもよいのと同様に、そんな自己実現の形に付き合っても構いませんし、付き合う必要もありません。

必要があるというのは「必ず要る」ということです。無いと成り立たないというレベルの領域です。

水や酸素は必要なものですが、意識の中の自己実現のあり方は必要なものではありません。

そして、時に必要と思っていることであっても「まだ全てが見えていない自分が必要であると思いこんでいること」というくらいに思っておくくらいが安全です。

もちろん為しても構いませんが、諸行無常ゆえに今の自分と未来の自分では保持している情報も異なれば、情報状態としても変化をしてしまいます。厳密には瞬間ごとに変化しています。

だからどこまでも自己実現の形が変化しても構わないという感じです。むしろ、ちょっと変化してからイメージしてみようという感じでもいいでしょう。

で、それの究極地点を考えてみると、自己実現すら欲しない状態であるはずです。何にも依存せず、ただ行為のみが残るという状態です。

この心が無条件に安らぎであればよい

「何かを実現したいと思うこと」にあたり「実現しないと困る」と思っていればいるほど対象に依存していることになります。

それが社会全体的なものであれば社会への依存になりますし、誰かに対するものであれば、その誰かへの依存になります。

でも最終的にこの心に映るものが全てです。

いかに社会が良くなろうが、人に好かれようが、社会で評価されようが、それを受け取るのはこの心であり、その様子を受け取るこの心のことだけで十分です。

そんな中、何かしらの自己実現が叶わないと困るという要素、つまり条件があればあるほど、より良い状態を欲しているにもかかわらず逆説的にそれが叶わなくなります。

そう考えると究極的にはこの心が無条件に安らぎであればよいという感じになります。

という感じなので、他人にも自分の意識にも

「あなたの自己実現とこの心の安らぎは関係がありません」

といった感じでつぶやいてみましょう。

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