自分のみじめさをこえて高まること

自分たちの威厳と重要さの感情を作り出すため、怒鳴りつけたり暴力を加えたりすることができるような他の人たちを― つまり、無力で卑怯なため、その面前である人が崇高な挙動や憤慨した挙動を示しても罰せられず―、差支えがないような者たち!― いつもまず必要とするのは、自負心の強い奴らであると私には思われる。― それゆえ彼らは、ちょっとの間、自分自身のみじめさをこえて高まるために、その環境がみじめであることが必要である! 曙光 369 前半

みじめであることの感情も、その場での自我の反応にしか過ぎません。

そして、嫌だと思ったことは、嫌だということを十分に受け入れることが、ある種の気づきをもたらすきっかけになります。

一番たちが悪いパターンは、なんとなくギリギリ耐えられるようなみじめさを肯定してしまうことです。

すごく簡単なことなのですが、労働組合だ何だで、その環境の改善に向けて奮い立つよりも、さっさと違法な労働条件の分は賠償請求して、とっとと他のことに目を向けたほうがいいというケースがよくあります。

「同じ環境で」という縛りを無くす

自分たちの「微妙に悪い環境」を少しずつ改善するよりも、他のフィールドに立ったほうが、一気に全てが改善するはずなのに、環境を一気に変えるということに対する恐怖心から、「今は我慢しながら、少しずつ改善していこう」と考えてしまいます。

みじめだと思うなら、それはたしかにみじめなのでしょう。

そう思ったのなら、「少しずつ改善」という方向性はいいですが、「同じ環境で」というのはやめておきましょう。

サービス精神

最近少しわかったことなのですが、あまりに優しくしすぎるのは、逆にサービス精神が足りないということになるケースがあるのだ、ということを実感しました。

極端に言えば、被支配に対して、満足を感じるタイプの人が結構いるのだということ知りました。

僕は、自由であることがいいと思っているのですが、自由を与えられ、かつ、周りに優しくされると、逆にストレスを感じるというタイプの人がいるようです。

それを見越して、適度にみじめさに浸ってもらうこと、それも一つのサービス精神なのかもしれないと思いました。

被虐と解放

Z会として意識のブロックを解いていく

森林原人さんの記事なんかを読んでると、いかに世間一般の男性のレベルが低いかがよくわかります。

端的には「雑」なんですね。

で、世の中には雑な人と繊細な人がいます。

それぞれ一長一短があるのですが、「雑な人の思い切り」と「繊細な人の丁寧さ」の両方が必要になるのではないでしょうか。

○玉との主従関係をまず逆転しないと、ある一定レベルより上にはいけないのかもしれません。また、もしかしたらIQの高さとか抽象思考能力なんかも必要なのかもしれません。

本気で、女性の意識のブロックを解放していくことができるのは、Z会メンバーたちのはずですが、己の○玉の都合に振り回されている、Z会予備軍では、おそらくその役目を果たすことはできないでしょう。

Z会・サービス精神で相手の意識のブロックを解く

「モテたい」ということは、今モテていない

まず第一に、モテたいと思っていないことが必要です。

モテたいと思っていると、相手になめられます。

そして、モテたいということは、今モテていないということです。

さらに「モテたらいいことがある」と期待しているフシがあります。

一種のプライミングですね。

ちょっと期待をさせられると、ほいほい都合の悪いことでも受け入れてしまいます。

なぜでしょうか?

それは、○玉の支配下にあるからです。

バカに話が通じない理由のひとつ

バカに話が通じない理由は、その人がバカだからです。

それは仕方ありません。

そして、そのバカさ加減というのは、一つは学力ですが、実は根本原因としてはそれだけではありません。

根本原因の一つは、意識の中で「リアル」をまだ経験しておらず、妄想というか合理的であろう「予測」によって、本能的な部分が目覚めていないからです。

「モテないが正しい」

ということを、理解できるでしょうか?

理解できるのであれば大丈夫です。

最近婚活女子みたいな人たちが、次から次へと相談に来ます。

しかし、根本的に頭で考えています。しかも、常識にガチガチに縛られた思考です。

そういったタイプの人達に、それならばと「思考」で挑んでも、論破することくらいはできますが、根本的な思考を変えることはできません。

なぜなら彼女たちは、「女子校の処女の群れの妄想の常識」みたいなものを保持しているからです。

その常識は、たかだか非Z会と数人経験しただけでは、打ち壊すことができません。

その程度で知ったつもりになるのは、ギター教室で、1曲コード弾きの弾き語りを習得した程度で、自分がB’zの松本さんになったような気分になっているのと同じです。

そうして、自分はギターが弾けると思うのは勝手ですが、たしかにギターは弾けるものの…といった感じになってしまいます。

それと同じことです。

でも相手はバカだから気付きません。

そういったギターフレーズの存在は知っていても、弾いてみよう、弾けるようになったときの感じを味わってみよう、とは思わないのですから。

自分のみじめさをこえて高まること 曙光 369

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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